はじめに-近況
お久しぶりです。色んなことがあったけど、初めて人前でライブをしたり、ちょっとずつ人に心を開けるようになっていった宵部憂です。
創作からはちょっと離れてしまったけれど、自分でなんとか自分の生活を運営していこう、していけるんだという時間を積み重ねる経験も悪くなかったと思う。
もう10歳の子どもの頃から感じていたことだけど、日常生活と創作活動の二足の草鞋を履こうとしていると、「プライベート」なんて時間はほとんどなくなってしまう。
その、いつも夢を叶えるため、未来のための行動をしなきゃ、時間を無駄にしちゃいられない、なんて、常に追い立てられるような心の余裕のなさが、余計私から他者に手を伸ばすことを奪っていっていたきらいがある。
でも、結局人との関わりの中で学べることや貰ったり渡したりするものこそが、人生の全てだ。
【本題】自己アピールが苦手-感覚が言葉になんないよ
近況はこのくらいにして表題の話に入るけれど、
最近、自己アピール……というか、自分の想いや考えを伝えて人を動かす技術を磨いていく大切さを噛み締めている。
普段生きていて、何気なく通り過ぎる人も多いようなことにでも引っ掛かりを感じやすいっぽいところがあるから、子どもの頃から「なんでそれが当たり前だと思うの?」「どうしてそれが良いことだっていう前提は疑わないの?」「どうしてもっとゆっくり自分のペースでやったらダメなの?」「人は気づくべきことにはちゃんと然るべきタイミングで気づくのに、なんで放っておいてくれないの?」みたいに、先生や親や周囲が言うことを根底から疑うことも多かった。
そうやって、もやもやとした違和感だったり、このままじゃいけない気がするという危機感だったり、なんだかしんどいよという疲弊や圧迫感だったり、あくまで感覚として何かをキャッチはしていた。
でも、それをどう言葉にして良いかわからなかった。
だから、私にとって歌は、うまく説明できない感覚をそのまま吐き出すすべだった。
初めて作った歌は、そんな閉塞感への叫びであり恨みだった。
おそらく、まずはそうやって、自分の想いを吐き出すだけ吐き出す時間が必要だったんだと思う。
だからこんなにもたくさん曲が作れたんだと思うし。
今も懐で温めている曲はたくさんあるけど、
これからは、吐き出すことではなくて、伝えることに軸足を置きたいと、やっとそう思えるようになった、ということなのかもしれない。
自分の考えていることや想っていることを客観的に捉えるのはすごく難しいことだ。
「客観的に考える」ことはできたとしても、自分の考えを外側からの視点で見て、この想いをこの伝え方で伝えた場合、他人にとってどんなふうに映るのか、どこがどういう風に分かりにくいのかを想像するのは、思っている以上に難しい。
でも、最近は少しだけマシになったかもしれない。
伝え方の順序を捉えられるようになってきたような気がするのだ。
【実践】先にイメージを伝えて具体化する-絵解き法
旅行の話を口頭でするだけではなく、写真を見せて、
「これは一緒に行った友達の〇〇って言う人で、この人がこんなことをして面白かったんだ」とか、
「ここが■■っていう場所で、写真には写せなかったけどここから▲▲っていうところにも行って、ここよりこんなところが違って素敵な景色で、そっちもすごく綺麗だった」と話した方が、
聞いていて面白い話になる気がするし、イメージが伝わりやすい気がする。
そういう風に、最初に聞き手に何か画を思い浮かべてもらうだけでも、聴きやすさや伝わりやすさが全然違う。
私は体の中に言葉にならない感覚や感情を溜めてしまっていたので、本心を話そうとしたとき、まず出てくるのはすごく抽象的な言葉だった。
「毎日追い立てられているみたいで苦しい」「誰もが私にダメ出しをしているみたい」「誰とも心をつなげなくて寂しいけど生きていかなきゃ」という風に。
このブログにもそういう投稿が多かった気がする。
これらは物凄く切実な訴えだけれど、同時にすごく主観的だ(主観的であることがダメというわけじゃない)。
だから、叫びにはなっても訴えとして効力は発揮しにくい。
聞き手の心を震わせることではなく、言う側が、一番ぴったりくる言葉で本心を言うこと自体を大切にする語り方だ。
……繰り返すけど、その語り方が悪いわけじゃない。私はそういう語りを聞いた時、「言ってくれてありがとう」って、その人のことをハグしたい気持ちになるから。
そういう語りをすることは、言う側のセルフケアそのものだ。
自分の本心を今まで言えなかった人は、聞き手を意識して話している場合じゃない。自分の言いたいように物を言うことが先決だ。
だって、思うようにものが言えないまま聞き手に届けようとする段階に飛ぼうとしたら、それまでと同じように、自分の本心を意識的にしろ無意識的にしろ抑圧したまま、聞き手にとって都合のいい言葉を選ぶことが聞き手を意識して話すことだと誤解してしまうだろうから。
ここで、例えば「そうとは知らずに乗ったけど、気づいたら自分の行き先とは違う電車に乗っていて、でも鮨詰めの満員状態だから今更降りられなくて苦しい、みたいな感じ」と伝えたらどうだろう。
これが、私なりの「毎日追い立てられているみたいで苦しい」を大掴みにする画だ。
少なくとも、聴く人の耳をグッと惹きつけるのではないか。
このフレーズだけでは不可解なイメージかもしれないけれど、それはそれで「それってどういうこと?」という興味は引く。
ここで、その絵の意味を解説するように、詳しく自分の想いを話せばいい。
例えば、「進学校っていうのがどういう場所か、子どもに分かるわけないけど、入った場所が進学校で、休んでる暇もないぐらい宿題と予習と小テストに追われてる。体調があんまり良くないし疲れやすくて休みたいけど、ちょっとでも休むとやらなきゃいけないことが膨らむから、ずっと解放されなくて走り続けないといけないの」みたいに話を続ける。
すると、最初の「満員電車に乗ってるみたいな苦しさ」という大枠に、具体的な人生のエピソードが書き込まれ、感覚的にも思い浮かべやすく、記憶にも残りやすい話になる。
お坊さんの説法の方法にも、確か「絵解き」という方法があるんだったかな。
それはズバリ、仏教の宗教画を見せて、その絵を解説するように説法をするというもの。
紙芝居や、ひいては漫画やアニメ(多分活弁とかも)のご先祖さまとも言えて、元々は説法だったけど大衆芸能の一つみたいにもなって、文字が読めない人にも楽しめる貴重な民衆の娯楽としても聞かれたのだとか。な、なんかすごい。
ということは、この方法は分かりやすくて伝わるっていうのは、歴史が証明してると言っても過言ではない……と思う……多分。
まだこの順序に気づいてまもないので、この喋り方がどれぐらいの効力を発揮するかは、これから実験結果が揃っていくと思う(笑)けど、とりあえずまとめてみた。
騙されたと思ってお試しあれ。
【実用】お試しあれ-試せる場面
日常生活だったら何から試すのがいいのかな……。
いきなりプレゼンとかで試してもいいけど、もっと卑近な例はないかなぁ……。
あ、自分が好きなものを人に布教するときが一番いいかもしれない。
奇しくも「布教」って、説法と同じ世界の言い回しだしね笑
お試しあれ!