ジョナサン・スターン『聞こえくる過去』講読メモ

ジョナサン・スターン『聞こえくる過去 音響再生産の文化的起源』インスクリプト 2015年

 の講読メモです。

 水色の箇所は本の内容ではなくわたしの感想や推察です。
 灰色の部分はわたしの注です。
 緑色の部分は、文章の内容としては脇道だけれども、わたしの興味を引いたので抜粋した部分です。

 この記事ではコメントを許可しているので、わたしが何か間違ったことを書いていたり、問題のある書き方をしていたり、耳寄り情報があるなどの場合は、コメントに書き込んでお知らせいただけると大変助かります!

ハロー!

・音響再生産技術以前ーー声や音楽としての音 
 以後ーー科学的現象としての音
 →音が科学的にどのようなものであるか解明の対象になるまでは、声や音楽が音を理解するためのメタファーであり、基準だった

・現象学・精神分析学の声の特権化
 脱構築における声の特権化の否定
 →ちょっと気になる。

・技術は、特定の実践と関係の所産でしかなく、神格化できるものではないし、技術それ自体などというものはなく、技術を取り巻く文化や社会や人々の営みとの関係こそが重要である
 →うん。

・音とは、聴取とは、社会の中で構築された人間の感覚でしかないので、ネットワークごと考える必要がある 
 ましてや、音は人間の感覚(社会によって醸成された感覚)の先や外にある超越的なものである、という考え方は神学的な偏見であり、もってのほかである
 →日本の言霊信仰とこの視聴覚連祷は重ねて論じても面白いかも? 日本の言霊信仰についての資料が必要だケド……

・私的空間としての聴覚空間 
 音を聴く技術は、個人的な空間の中でしか養われなかった
 →音を集中的に聴くという行為は、人間を個/孤にする
 →サバイバルっぽい。

・アクースマティックな理解=「録音技術は音を発生源から切り離した」は、「透明な録音技術」という産業的プロジェクトであり、コマーシャル 
対面と同等だということにするための 
 録音は客観的じゃなく、再生産されるときに「オリジナル」「原音」「らしく聴こえる」ための演奏方法を生み出さなければならないほど組織的に生み出された/生み出されている
 →確かにいいいいいい。これは小説の「透明な言葉」にも似ているね。
  透明じゃないけど、透明だということにしたくて作り出す音……

・録音=死体の防腐技術、過去の永続的保存というプロジェクト
 空間の関係を時間の関係として理解する、「近代」の帝国主義・植民地主義
 →録音=過去の保存という夢と、その夢が初めて語られた時代の闇
  一方的かつ的外れなノスタルジーによる音や文化の搾取が行われていた……
 →「懐かしい過去、輝かしい過去、愛すべき過去」差別と搾取ーー勝手な美化

・音響再生産の歴史は、音を操作、変容、形成しようとする試みの歴史
 →なぜわたしは音を操作・変容・形成させたいのか
  もとは声と音楽という「メタファー」への愛着からだった
  今もそうだ
  言霊信仰に突き動かされてる部分もある
  語りにも興味あるからだ
  弾き語りのような

  語りの集中的聴取
  閉じられた歌い語りが、神話的経験を開く
  集中的聴取であるから、コミュニケーションではなく/「透明な音」を使った歌い語りであるから、サバイバルな身体感覚(聴覚→全身の感覚)を蘇らせ/個人の中に経験を形作る
  神話の資料が必要だけど。

わたしは言祝ぎ。

「ことほぎ」と読みます。

 歌を作る、音楽をやるっていうのもわたしのやりたいことなら、こうしてブログを書くことも、お話を書くこともそう。
 わたしのやりたいことは言葉と声で紡ぐこと。
 音楽だって、楽器の声と言えると思うんだ。わたしの場合は音源の声だけど。
 わたしの音楽に封じられている音たちは、すべて、口は音源の口を借りていたとしても、すべてわたしの祈りで、わたしのささやきです。

 シンガーソングライターとか、ブロガーとか、そういう存在になれればいいってわけじゃないの。
「シンガーソングライター」という響きには、小学1年生の頃から憧れがあったから、それを名乗っているけど、「音楽をやっています」という自己紹介には少し引っかかるところがあるんだ。
 わたしは「音楽をやっています」という言葉でカバーし切れる感じじゃないなって。

 わたしはわたしをやってるんだよね。
 それで、わたしをやることの原点みたいなのってどこなんだろうって思ったら、言祝ぎかな、って思ったの。

 言祝ぎってじゃあ何をすることなのか、言葉にするのは難しいけど……
 例えば、静まりかえった宵、祭りの始まりに、その時の風情を綺麗な言葉で表したうたを歌い上げれば、それは生きていることへの賛歌になるんじゃないかな。とか……
 ラブレターだってそうだよね。百人一首の半分以上の歌が愛の歌なんじゃなかったっけ。自然を愛でるのも愛しい人を歌うのも、賛歌で、言祝ぎだよね。とか……
 この世界の空気の中に、自分の声を、言葉を、節に乗せて、響かせる。それだけで、なんか魔術的だし、神秘的な儀式だと思うの。とか……
 愛や祈りを言葉と声に込め、空気の中に献上すること。

 ま、とはいえ、別にブログに書くのは、狭義で言ったら愛でも祈りでもないことだって赤裸々に書くつもりだよ。それだって、回り回って生への賛歌で、言祝ぎだと思うけど。
 つまりさ、わたしは声にも言葉にも、神秘的な力を感じているってことなんだよね。

 祝詞とか呪文とか、あるじゃない。昔から宗教と歌は分かち難かったしさ。
 それから、こうしてテクストとして刻まれた言葉だって、声の変種とも言えると思うの。わたしはここでもわたしの声を奏でているつもり。

 言祝ぎたい世界に生きていきたいな。
 すでにそれは、いくらか叶っているけど、もっともっと。

 わたしの声は、生々しく、「生そのもの」のような感じがすると、言ってくれた方がいました。
 だとしたらやっぱり、言祝ぎがわたしの天職。

 声と言葉には力があるってこと、わたしは歌と共に生きてきた人生の中でひしひしと感じています。

 

 お気に入りの言祝ぎたち❤️❤️❤️↓

 

 実はこの曲……spotifyなど音楽配信サービスで聴いた方が音質が良いです。「哀と傷」に収録されてます!

 もちろんでも、人間的な感情爆発!!!!みたいな曲たちもお気に入りです!!!!
 いろいろ曲を作ってます。曲だけじゃなくていろいろやってます。
 気になった方はYouTubeチャンネルをぜひチェックしてね!!!! 
 こちら!!!→https://www.youtube.com/channel/UCEfK758Z6YnBXVfXyxsKhMA

物語についての思索と和解、最後に卒制。

 ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』を読んでいる。
 わたしたちは、口誦文化からその系譜を色濃く引き継いで発展した文字の文化の上に生きていて、でもエレクトロニクスにより二次的な声の文化の上にも生きている、というのがオングの主張だけど、口誦文化に関するオングの研究は、わたしがずっと抱えてきた物語への蟠りにも、語るための語彙をくれた。

 結局のところ、物語を使って人に言うことを聞かせる、という手法の下品さ、子ども騙しが、子どもの頃の私には耐え難かったのだろう。何か物語を読んで聞かせては、だからあなたもああしなさいこうしなさいと。
 もちろん、物語には、それだけ多くの叡智をしまっておけるというヤバい機能があるわけで、それは物語のとっても伝統的な使われ方なのだが、読書好きで「内面」というものをいち早く獲得した子どもだったのかもしれないわたしには、それがひどく薄っぺらい子ども騙しに感じられたのだ。

 語り聞かせる物語--それは幼児期〜小学校低学年ぐらいまでに読み聞かせられるものや、それ以降も継続して強制的に聞かされる説教的なものまで--は、決まり文句的な筋を持つのがむしろ当然である。
 それは文字のなかった時代の名残だ。
 その時代は決まり文句的な内容あるいはリズミカルな言葉でなければ繰り返されることができず、したがって記憶されることができず、消えてしまうものだから--といった理論を、わたしは『声の文化と文字の文化』から得たわけだが、わたしが物語に感じていたいやらしさも、突き詰めるとここにある気がする。
 つまり、先に話の落としどころが決まっていて、それありきで話を聞かされる退屈さ。
 でもそれこそが、口誦文化の時代には、記憶のために重要だったのだ。

 でも! 語弊がないように書いておくと、その時代にも芸術的で子ども騙しでは全くないものはもちろん存在していたし、今もその続きは存在し続けている。
 だが、その芸術性がどこにあるのかと言えば、話の筋や内容自体の根幹が変わるということではなく、その話が話されるときの、聴衆に合わせた語り口や歌い調子などにある(オング)。
 例えば、強制的に聞かされるものとは言え、「話の上手い」プレゼンや講演には、わたしも何度も引き込まれてきた。それはやっぱり、「つかみ」とか、わたしたちの年代や関心にも合わせた語り口を使うとか、そういうことなんじゃないかと思う。
 また、話芸といえばわたしがぱっと連想するのは落語だが、噺家さんも、そのときのお客さんの年齢層や関心、会場の雰囲気などに合わせ、話す演目も語り口も枕も変えるのだから、これは芸術的だしめちゃくちゃクリエイティブだろう。こっちに関しても、わたしもやっぱりさすがだなあと思ったことがある。同じ噺家さんでも、子どもも客層に入っている場では、小僧が主人公で、内容がわかりやすいだけでなく、内容がわからなくてもリズムや歌い調子だけでも笑えるような演目を話し、大人が多めの場では、現代物で世情を組んだ、ほんのちょっとワイセツな部分も含んでいたり、ちょっとホロリともきたり、といった演目を話し、という具合だった。

 翻って、めんどくさいお説教に芸術的な語り口や歌い調子や機転などはあるわけないから、やっぱりわたしの反感は間違ってないと思う。ぷんすか。
 そもそもこちらを楽しませようとしている演目ではなく、従わせたいがためのものだもの。演説ならまだ聞いてやってもいいけどさ。

 あとは、人間の人生を、物語のプロット(はじめがあってクライマックスがあってエンドってやつ)あるいはお決まりの話の筋(例:正直じいさんには良い報いがあり、いじわるじいさんは酷い目に合う)で圧縮して分かった気になって消費する、みたいな文化に対する苛立ちだ。

 どんなエピソードも、その裏には人間の人生がある。
 そりゃ、大きなかぶの家族は具体的な誰かではないと思うからともかく、そういう抽象的な伝承とか、あるいは映画の登場人物が映画の中で成したような話、と、実在の人物(偉人とかスポーツ選手とか)の人生をごっちゃにするってどうなんだ。
 だからわたしは伝記が苦手である。その人物が偉大であるというオチが先にあって組み立てられた物語って、読んでて辛くないか。
 同時に、実在の人物を引き合いに出した説教も超嫌いである。お前その人に会ったことあるんか。会ったことあったとしても、その人の人生の何がわかるん?

 ……なんか、要するに説教聞くの超嫌いムカつく! っていう結論に落ち着きそうだ。
 物語が悪いわけじゃなかったのだろう。今まで警戒心MAXで扱ってしまってごめんよ、物語……。お前もたくさんの人間に好きなように使われて辛かったよな……

 つまり一番嫌だったのは、「こんな人間になりたければ〇〇しなさい」「こんな人間になりたくなければ××しなさい」という、お説教だったんだ。
 とくに後者。

 人が人を裁く、それもまともに自分の頭で考えてない偏見で、という醜さを子ども時代に見すぎたことが(これはわたしが特殊な環境で育ったということではなく)、とても辛かったのかもしれない。
 この世はとても生きづらく、人がすぐに裁かれ、「あんな人間にならないように」と言われてしまう場所なのだ、と思ってしまったのかも。そのショックで、物語ごと恐ろしくなってしまったのかも!

 そしてわたしは、「その人を裁く」ということが、物語る人の偏向にではなく、物語の構造に宿っていると、今のいままで考えていたのだ!

 過去の自分を振り返ってみると、「物語ること=正解を出すこと、だから恐ろしい」と何度も言っているのもわかる。

  ……なんか、こうして見てみると、面倒臭い部分がいっぱいあってイライラするのに好きだから別れられない彼氏の話をしてるみたいだ。
 でも本当は、物語のせいじゃなかったかもしれねえ。

 

 だからわたしは、自分が物語ることも恐ろしかった。
 わたしの物語を、わたしの世界を、わたしの価値観を、美意識を、プロットや筋で薄っぺらく受け取られたらどうしようって。薄っぺらく要約されたらどうしようって。

 でも、それもやはり、物語のせいではない。
 物語という形は、人間が自分の中に入ってきた情報を処理するやり方にすぎない。

 わたしの語りを聞いて、わたしからすると「薄っぺらく」解釈した人の物語の網の目は、わたしの好みに合わない網の目だった、というだけの話なのだ。

 じゃあ、物語が恐ろしいものではないとしたら、わたしは何を語るのだろうか。
 わたしの物語からどんな「教訓」や「お説教」が引き出されようと、それはわたしではなく、そんなもんを引き出す側の問題なのだとしたら、わたしは何を語るのだろう。

 上にも書いたが、物語とは、多くの叡智を一気にそこにしまっておける、ヤベーガジェットだ。一連の、ひとまとまりの知識を一緒くたにできる。実際、暗記の天才は、無理やりにでも物語を作ってそれに関連づけていくつもの物事を覚えるらしいしね。
 自分の物語、例えばフィクションを語るとしたら、わたしはそこに、いくつものわたしが得てきた叡智と、自分の好きなものを散りばめたいな。

 

 ……ってこれ、いい加減手を動かさないといけない卒業制作につながる思索のつもりだったんだけど、やっぱ直接的につながるかはわかんないや。

 卒業制作はそれこそ、「人生なんて物語の形にできるわけないだろ、最も印象的な経験は全然物語的じゃねえだろーーーーー!!!!! 語りたくても語れねえことがあるだろーーーー!!!!!」という初期衝動を持っていたんだけど、わたしもぐんぐん成長しているから、また違った落とし所になりそう。
 だから物語を解体していこうとしていたんだけど、違う方向に髪先を引っ張られている。

 でも、そろそろテキストを書き上げないといけない。あ、焦る。

 とりあえず今は、「物語と記憶」に興味が移った……という感じかな。「語り得ないこと」も、記憶をめぐる話だしね。ほ、とりあえず方向性は見えたぞ……

 あ、焦る……
 卒論や卒制を頑張っている全国の大学4年生、一緒にがんばろーね。

オング『声の文化と文字の文化』講読メモ

日本語版への序文

書くことは一つの技術 さまざまな道具とともに用いられ、物理的な手に触れることができる産物=テクストを生み出すから

electronic visualism

序文

声の文化と文字の文化では、知識がどのように扱われ、かつどのように言葉にされるのかが違う

オラリティー:ことばの声としての性格 そうした性格を中心に形成される文化

リテラシー:文字を操る能力 そうした能力を中心に形成される文化

書くことと印刷することの両方の上に築かれたエレクトロニクス文化

オラリティー(ことばの声としての性格)と書くこと(writing)の関係が焦点

エレクトロニクスの時代になって初めて声の文化と文字の文化の違いについて理解が開かれた

エレクトロニクスの時代は二次的な声の文化ー電話、ラジオ、テレビばどによって形成される声の文化の時代

声の文化→文字の文化→エレクトロニクスによる処理

第一章声としてのことば

書くことは、ことばを空間に留めること

書くことを通して、ある少数の地域言語が「文字言語」になる

マクルーハン『メディアの法則』講読メモ4

マーシャル・マクルーハン+エリック・マクルーハン『メディアの法則』NTT出版 2002年

 の講読メモです。

 水色の箇所は本の内容ではなくわたしの感想や推察です。
 灰色の部分はわたしの注です。
 緑色の部分は、文章の内容としては脇道だけれども、わたしの興味を引いたので抜粋した部分です。

 この記事ではコメントを許可しているので、わたしが何か間違ったことを書いていたり、問題のある書き方をしていたり、耳寄り情報があるなどの場合は、コメントに書き込んでお知らせいただけると大変助かります!

第一章(p.23〜)

p.24~26

 諸感覚がともにダンスするとき、変身ートランスフォメーションーが経験の共通感覚モード
 変身=メタモルフォーゼではない。トランスフォメーション。変容、変態、変形。姿形がかわること、というよりも「移り変わる」こと。何かになってしまう(完了系)ことよりも、状態が移りゆく(連続する流れの中)こと
 視覚が他の感覚に対して優位なとき、万物は静止する

 子音、音素、表音文字であるアルファベット(それまでの、意味のある文字とは違う)という抽象概念 それまでは音と意味は繋がっていた
 知覚内容ーパーセプトー(経験の基礎)と概念ーコンセプトーが、アルファベットの発明によって切り離される

p.26~29

 視覚的空間の地の抑圧--文字(アルファベット)は透明な文字
 知覚内容(パーセプト)を持たない概念(図) ということは知覚内容は「地」?
 視覚は、図を地の上に孤立させる 視覚だけが持つ特徴
 意識(図)と無意識(地)の分離
 内的経験(想像上の、抽象的な)と外的経験(ことばによる=音や文字)の分離

 ミメーシスは、文字以前の人々にとって表現の形式であるだけでなく、「すべての人々の学習のプロセス」
 相手と「一体化」することで、相手を知る(=変身)
 プラトン「ミメーシスによって、人々は本人の人格や現実の状況を失い、知覚したい対象そのものになって詩の舞台の一部となってしまう」「ミメーシスとは部族を結束させる口誦の絆」センチメンタルな共感の力?
 ハヴロック「彼ら自身がアキレウスとなり、詩を記憶する並外れた能力を得た代わりに客観性を犠牲にした」「プラトンは、経験を記憶する代わりにそれを検証し、再配列するよう求め、ただ語るのではなく、自分の語ることについてよく考えるように求める。人々は経験と一体化するのではなく、経験から自分を切り離して、それを再興し、分析し、評価するような『主観』に自らなるべきと言う」自分(主観)=図、経験=地 

p.29~31

「視覚的な言葉」=図と地が分かれた言葉 概念だけを伝える透明な言葉
 読む=レコードの再生
 孤立したただ一つの感覚ー視覚を通じて、発話(スピーチ)の音は再生される
 どんな発話の音でもアルファベット(=音素をあらわす文字)に置き換えることができる力

 空間は球形で多感覚的かつ多次元的であるという聴覚的な古い「常識」

 視覚空間の特徴 1静止 時の抑圧をともなう感受性の分離によって可能になる
 一方が他方を「表している」だけで、知覚内容と概念が相互に影響しあっている(動的な関係)わけではない

p.31~32

 抽象的な幾何学空間 「存在」についての形而上学的関心
 弁証学と幾何学が、視覚の抽象空間を開いた
 それ以前は誰もがプロテウスだった
 ミメーシスは、制作過程から具体的な擦り合わせになり、「しあげ」の手段の一つに過ぎなくなった?
 存在についての古くからの経験は視覚空間として新しい条件下で回復された

p/32~33

 ロジックとは、前提もしくは前提の連言の中に結論が包含されていることの隠喩
 前提から結論を引き出してくるために行われる発話
「連結命題」
 こうして推論はすべて視覚的空間の特性を利用しているー静的、幾何学的、連結的

p.34

 聴覚空間ーアインシュタイン的空間
「視覚空間は眼が他の感覚から抽象され引き離された時に、眼によって想像され知覚される空間である」 他の諸感覚との相互作用から視覚が抽象化された人工的空間
 アルファベットがその起源 「表音アルファベットを持たない他のどんな文化にも抽象化は生じない」 え、じゃあ日本語は? 日本語に表音アルファベットはないです、音素ではなく音節を表記する仮名しかないです ナショナリズムにならないようにしたい
 視覚空間は地のない図を想定するが、自然にはそんなものはないし、それどころか図なんてものはない。ただ多様で非連続的な、動的環境のモザイクがあるだけ

p.35~36

 視覚空間を用いる者にとって、自然は、抽象化という手段を用いれば多様性と非連続性(お互いがつながるための論理的・必然的な理由などないこと)の排除が可能な図の集合として映る。
 理性的な空間は、静止を作り出すために「ハコ」を作り、そこにある空間を閉じ込めることで生じる。
 視覚の図は、光速という地を持っている。相対性理論はそれを突き付けたため、視覚空間の君臨を揺るがすセンセーショナルなものになった。
 グーテンベルグの印刷術は、視覚空間を大いに拡大した。

p.36~37

 ジョン・ロック『人間知性論』
 宇宙は地のない図、視覚空間の特徴と同じ 宇宙は「純粋空間」
 空間がただの「ハコ」であって、内容物によって変更されない静的なものであること、そして分離できない連続体であるということ

p.37~39

 均質さ、無限性、連続性ー無限可分性
「空間の中に物が2つあり、その2つの間に何もない(無がある)なら、その2つの物体は必ず触れなければならない」純粋空間 運動させられた物体は妨害がなければ運動し続ける空間
 ロックの時間についての概念 視覚空間の特徴
「時間一般と持続は場所と広がりに同じ」「無限から境界標で仕切られ、残りと区別されたもの」「持続と時間の無限(抑圧された地)の中で有限な実在(図)の相互の位置を指標するために使われる」

p.39~40

 広がり=空間についての長さの観念は、どちらの方向へも向けられ、形と幅と厚さを作る
 持続=時間は無限に伸びる一直線の長さで、重複も変動も形も許さない
「自然の表面に被せられた仮面」(ターベイン)
 幾何学モデルというメタファー 神聖なもの ピュタゴラス、ユークリッド、デカルト、ニュートン 抽象、演繹
 幾何学モデルは、視覚空間の特性、地の抑圧と図の分離の上に築かれている
 そして「延長」が第二の特徴 今や物質世界は全てそのように観られている

p.41~44

 幾何学モデルに最後に「運動・活動」が取り入れられ、幾何学モデルは機械モデルと一体になり、幾何学は物理学になる
「いったん精神が自然の中に吸収されてしまうと、精神は自然界の性質を帯びることになる」
「個々の部分が他の部分と正確に共働する機会として宇宙秩序が登場すると、精神もまたその ” 自然 ” の一部となる」
 視覚空間と紙の同一視 神がこの世界に働きかけているという中世後期のイメージ、「光学」から引出された心象を回復する
 遠近法、光学、恩寵
 光の自然界に対する関係は、抽象空間の幾何学に対する関係に等しい つまり、自然界においては光が神、幾何学においては抽象空間が神? 広大さと永遠

 
p.44~45

 崇高なものや巨大なものに対する賛美から、混乱と無秩序の壮大さへ、壮大なものへの価値観が反転(ただし「ロマン」を感じるという点は共通) 例:アルプス山脈
「ロマン」は、ある事物から想起された概念がその事物として再現されること(例:ゴシックロマン)
「ロマンティック」は、主観的な印象と「それ自体」(廃墟や荒地や詩など)の内容を分けて考えることができるようになったからこそ生まれた

 文字以前の人々が経験する聴覚空間は空間認識の自然な様式 いかなる技術の副作用でもなかったから ことばを「技術」とせず、所与のもの、「人間」の条件とするならばだけど--ああでも、ことばじゃなくても音ではあるのか……
 ユークリッド以前の空間感受性 電気技術の副作用としてこの感受性が再登場してきた

p.46

「ある法則に従って起きることは原因を必要としない」コリングヴッド

p.46~47

 視覚空間=ユークリッド空間
 アルファベットの普及によってもたらされた知覚の変化は、包括的な聴・触覚の感覚の統合を追いやった

p.47~

 聴覚空間はその性質上視覚空間とは対照
 聴覚空間は他の感覚によって常に貫かれ、非連続的(カオス)、非均質的、共鳴的で動的 内部で図と地が常に互いに生成変化し合う動体
 アリストテレスは、新しい意識の形式を使いながら、口誦文化の観念を維持・刷新していたハイブリッド
「無限定」はユークリッド空間ではなく、始まりも終わりも、囲いも境界もない(=端もなく、仕切りもない)球形の空虚 そして空虚は、それを包み込む外側の空気から内部に吸い込まれる浸透的なもの

 形相やゲシュタルトを与えるものは元素(部分)というよりも、むしろその元素間の間(関係)
 空の機能は、もの同士を離れさせ、それらが内部で移動する場を提供すること
 聴覚空間は、事物がそれぞれ独自の空間を作り出し互いに相手に変容と抑圧を迫るような球体構造を持っている
 他の感覚を潜在意識の中に追いやるような視覚の圧力がなければ、諸感覚の相互依存関係は一定 つまり、それだけ視覚優位な世界になっていたということ!? 
「諸感覚がともにダンスする」とはそういうことか。「聴覚」空間と言ってはいるが、実際は触覚・嗅覚、そして味覚や視覚ですらも「聴覚的に」包含する空間のことだと思う。「聴覚的に」というのはつまり、同時的で、カオスで、耳を塞ぐことも音を分けることもできないということ(まあ人間の脳みそは感覚を分けてはいると思うけど、それだって図と地は恣意的に選べるということだから、聴覚空間=自然 の中に 理性=視覚的世界観 を持ち込む人間、という構造なのでは。それでミメーシスは、対象が経験したであろう聴覚空間全てを疑似的に経験することなのでは)
キーワード:吟遊詩人、ミメーシス、アリストテレス

 

マクルーハン父子『メディアの法則』講読メモ3

ジョナサン・スターン『聞こえくる過去 音響再生産の文化的起源』インスクリプト 2015年

 の講読メモです。

 水色の箇所は本の内容ではなくわたしの感想や推察です。
 灰色の部分はわたしの注です。
 緑色の部分は、文章の内容としては脇道だけれども、わたしの興味を引いたので抜粋した部分です。

 この記事ではコメントを許可しているので、わたしが何か間違ったことを書いていたり、問題のある書き方をしていたり、耳寄り情報があるなどの場合は、コメントに書き込んでお知らせいただけると大変助かります!

序論(p.10~22)

 人間が手を加えた人工物は、ある種のことば(語)=経験をある景色から別な形式へ翻訳する隠喩(メタファー)である
 本書は、こうしたことば(人工物あるいはメディア)の語源研究と釈義を提供
注 釈義とは:文章・語句などの意味を、解釈・説明すること。また、その内容。(コトバンクより)

「古い学」は、ルネサンス以降の伝統 内容(コンテント)と伝達(メッセージ)の中身についてだけの科学
「新しい学」(ヴィーコをひいている)--「人間が関わるメディアと技術に関する研究は、人間の本性の研究から始めなければならず、感覚の研究に没頭しなければならない」

ヴィーコ『新しい学』の引用より
「この社会は人間によって造られたものであるから、原理はわれわれの人間精神そのものの変化容態の中に求めることができ、またそうでなくてはならない」

 視覚空間はアルファベットの使用によってもたらされたもの

 聴覚空間を理解する上で、ロゴスやミメーシス、形相因の本質について大きな混乱があった
 視覚空間の世界観で解釈されてしまった
 →ロゴス、ミメーシス、形相因の形式の解釈が2つ存在することになった
  一方は口述的な、まとまりを欠いたあるいは試験的な試みとみなされ、
  他方は視覚的な構造を持つとされた
注 形相因とは: アリストテレス哲学の四原因の一つ。事物をして事物たらしめる本質規定。(コトバンクより)

 あらゆる状況は、注意を引く領域(図)と、注意を引かない大きな領域(地)からなっている(ルビンの概念、1915年頃)
 図と地は戯れあっており、一方が他者を引き出す
 図は地から現れ地に退く
 地はあらゆる他の全ての図を同時に含む

(感覚を持つものが注意をどこに向けるかで図は移りゆく)

 図が知覚される「条件」=「ものの見方」
 地をそれ自体として研究することは不可能 地は常に環境的で、閾下にある
 ↑を研究するために取り得る唯一の戦略は「反=環境」を構築すること=芸術家の活動
 芸術家は、感受性を再訓練・刷新できる存在(だから「地」「環境」=知覚できないものを知覚できるようにすることができる)

 地→図
「出来事はそれが起きる前に影を投げかける」
 (メディア)図(技術や人工物)を引き起こすための条件であり、図が及ぼす効果と逆効果の全環境でもある。
 だから地は、新しい文化様式にならねばならない
 古い地が新しい状況(文化様式、社会情勢…)に内包されてしまうと、美的な図として見えてくる
 ↑一般の人から見てこうなるずっと前に、現在の地はどうなっているのか見えるようにするのが芸術家の仕事
  新しい文化様式を感じ、新しい文化様式によって生まれた感受性の形式を探求する=「未だことばになっていないものに攻め入」る人類のアンテナ

 聴覚空間と触覚空間は不可分
 聴覚と触覚のゲシュタルトは、特有の空間の形状をつくりだす
 図と地は動的な平衡状態にあり、両者を分けている間を超えて圧力を掛け合っている
 共鳴した間 共鳴ー聴覚空間の様態 間ー触知性、圧力、境界
(↑「それぞれの感覚のやり方で、境界を持ちつつも干渉しあっている」ことの表現?)
注 ゲシュタルトとは:部分からは導くことのできない、一つのまとまった、有機的・具体的な全体性のある構造をもったもの。形態。「かたまり」みたいな? 部分に分けられないかたまり。

 触覚空間は、対象と対峙することではなく、対象とともに生きることを要求する(リュセイラン『光ありき』から引いて)

 テトラッド
・それは何を強化し、強調するのか?
・それは何を廃れさせ、何にとって代わるのか?
・それはかつて廃れてしまった何を回復するのか?
・それは極限まで押し進められたとき何を生み出し、何に転じるのか?

「古い学」は動力因
注 動力因とは:事物の運動、生成、変化を引き起こす力、動因となるもの。(コトバンクより)
 人間とは何か?=ことば/言葉とは何か?=何が起きているのか? を探るための形相因ではなく、「何が起きているのかはどうやって考えたらいいのか?」という動力因子、ということ……?

『今日をつかめ--落伍者としての重役』企業文化の中で起きている変化
 ハードウェアからソフトウェアへ、仕事を持つことから役割を演じることへ、中央集権主義から分権主義へ
『メディアの理解』「加熱したメディアの反転」の章
 ある状況が極端に押し進められると、どんな状況も一転して補完的なものに変わってしまう(=何かを埋めようとする形態になる?)こと
 身体器官や意識の拡張物(ある種の能力向上)としてのメディアの問題 使用者に深い影響をもたらす
『グーテンベルグの銀河系』は、他の感覚に対する視覚の優位性について
『消失点を越えて--詩と絵画における空間』感覚の研究を芸術の領域に持ち込み、警句、探査、並置を研究手法としていかに用いるかの実践
注 探査とは:事象についての筋の通った矛盾ない解説ではなく、その事象の本質を解明するための知的探査 =考えてみる、やってみること? 間違っていても、反証ができるものであっても良い、むしろその方が良いような
  並置とは:物事を秩序立てて順番に分析するのではなく、事象を同時的に考察する手法 マクルーハンがよく用いる「モザイク的アプローチ」や「パターン認識」も同じ

 進化のために過去を捨て去ってきた
 ポスト文字文化を受け入れつつあるため、アルファベット文化に根源や共鳴を見出すことから遠ざかっている
 文字分化以前は、文化に蓄積された知識を伝承するのは詩人たちの仕事だった
 筆記が始まって以降、ロゴスは粉々に砕かれ、口誦時代の権威は失墜した
 その回復が「自由学芸七科」=「三科:修辞学、文法学、弁証学/四科学:算術、天文学、幾何学、音楽」

 なかでも「三科」は言語についての技術と科学
 修辞学は発話(スピーチ)の学 基本原理は聴衆を変容させること どう話すか
 文法学は書かれたテキストの解釈と語の系譜=語源研究 どう読むか
 弁証学は思考としての言葉、言葉と思考の内容、正しい思考の体系を扱う 抽象的で、修辞学と文法学に影響される どう考えるか 論理学と哲学からなり、古い学の源

 修辞学と文法学は双子の科学
  図と地の要素が具わっている・外部感覚に提示される言葉と関わっている(発話/文字)
  相互補完的なものである、自然と聖書(=ものと言葉/ことば ちょいフーコーに目配せしちゃった笑)/発話と文字 を縦糸と横糸のように折り合わせる
「ことば」あるいは「発話」を意味する「ロゴス」
 ということは、ロゴス自体聴覚的なことばである
 これ以降、「聴覚時代」「聴覚空間」のことばはひらがなで、アルファベット以降の言葉は漢字で書こうかな

「古典派(アンティクィ)」--修辞学と文法学 「新しい学」 ヴィーコ、ベーコン 「詩的知恵」
「現代派(モデルニ)」--知識と思想と試みの組織化 「古い学」
 三科がひとつになった歴史学は存在しないが、今必要になっている
 現象学の問題 現象学とは弁証学によって文法学を作り出そうとする、地を表面に押し上げようとする試みだから 現代派-「古い学」のやり方で、修辞学や文法学の両分であるものを回復しようとしているから その領分とは、「ことば/言葉とは何か」ー「ひとと外界の関わりとはどのようなものか」ということ?

 理論科学は知識と理論に始まり、概念に基くから、図によって進行し(注意を向けた=向けられるものについて研究する)、推論において不完全な点を突き止め、軌道修正の手段を持たなければうまくいけない。
 経験科学は無知と偏向に始まり、知覚内容(パーセプト)に根差すから、図と地によって進行し(注意を向けたものと、それに注意が向く条件を作っている環境を研究する)、感覚の偏向を見つけ出し、それを補正するための手段を持たなければうまくいかない。
 自分たちで自分たちの考えを常に軌道修正・時代に合わせて改良できるようにしなければならない
 コミュニケーション理論=効果と知覚偏向にかかわる理論
 ベーコンの「四つの偶像(イドラ)」、ヴィーコの「公理」=知覚領域に関しては、個人的あるいは文化的な盲目や無感覚の形式

宵部によるおまけ

 アリストテレス哲学 運動の四原因

 1質料因 生成、変化の素材、原料となるもの。(コトバンクより)
 2形相因
 3動力因(始動因、作動因)
 4目的因 事物が何のために存在するか、行為が何のためになされるかを示す目的が、その事物の存在やその行為を理由づけるもの。(コトバンクより)

 

 

マクルーハン『メディアの法則』購読メモ2

マーシャル・マクルーハン+エリック・マクルーハン 監修・序 高山宏 訳 中澤豊『メディアの法則』 NTT出版 20002年

 の講読メモです。

 水色の箇所は本の内容ではなくわたしの感想や推察です。
 灰色の部分はわたしの注です。
 緑色の部分は、文章の内容としては脇道だけれども、わたしの興味を引いたので抜粋した部分です。

 この記事ではコメントを許可しているので、わたしが何か間違ったことを書いていたり、問題のある書き方をしていたり、耳寄り情報があるなどの場合は、コメントに書き込んでお知らせいただけると大変助かります!

はじめに(p.2〜 8)

「フラストレーションの問題」
「この本に書いてあることはあなたにとって都合がいいかもしれないが、科学的ではない」

 伝統的な意味での科学ではなかった
『メディアの理解』の文章のスタイルは、文章の流れの非連続的特徴を出すために意図して選択され、何度も書き直された末に出来上がった
 読者の感受性を揺さぶって、本の主題を自ら上手く補完し、完成させることができるような意識状態に読者を放り込もうとした(詩の世界)
 読者を鍛錬する手段として読者を直接諷刺する
 そうした論述方法をどうやって「科学的」にするか
 カール・ポパー卿『客観的知識』の中に答えが→「反証可能なかたちで言明されたもの」
→「誰でも、それが証明だろうと反証だろうと、自ら試みることができる言明」をめざす
 反証がないことが真実なのではなく、証明や反証を誰もが試みられるという点で再現性があり、客観性があることを目指す ということかな

最初のメディアの法則
1「拡張」
 あらゆる技術は人間のある特定の器官や機能を拡張子増幅する。
2「閉鎖」
 感覚は平衡を保とうとするため、経験のある部分が高められたり強められたりすると、他や弱められる。
3「反転」
 あらゆる形式はその潜在力の限界点を超えて押しやられる時、本来の性質を「反転」させる
4「回復」
 新しいメディアの内容は常にそれ以前のメディアである
これら4つの法則間の内部調和、内部調和と隠喩の関係

 メディアが感受性を拡張し変容させるやり方の研究
 第一章は、視覚空間と聴覚空間、そしてそれらが文字の使用と電気技術によっていかに進展してきたか についての研究 感覚間の相互浸透についてはより吟味が必要

 隠喩との関連を見つけようとするうちに発見↓
 発話とは外へ出ることであり、そうならばメディアはことばのようなものではなく、まさしくことばであり、「法則」はメディアの言語構造を解く手がかりだった
 発話と人工物の間の結びつきの研究
 人間の発話と人工物にのみ当てはまる法則

 フランシス・ベーコンの「四つのイドラ(偶像)」 コミュニケーションの偏向--メディアによって強いられた盲目の状態--についての手掛かり
 ヴィーコ 語源学と解釈学 言語の中にあらわになっている感受性の偏向の形式を意識 「われわれの人間精神そのものの変化容態」

 文体について
 文体を内容に合わせようとした。章ごとに文体が異なっている
 第一章 万華鏡 内容が圧縮され、主題と意図が複雑な均衡を形成
 第二章 軽快 物語ふう
 第三章 物語ふう
 第四章 詩の形式 テトラッドは中期に取り囲まれた「節」「連」
 この本の五つの章がまた、ひとつのテーマへのモザイク状のアプローチ
 気になった章だけ調べ、他は無視して構わない

 テトラッドとは:4つの法則のこと。

マクルーハン『メディアの法則』講読メモ1

マーシャル・マクルーハン+エリック・マクルーハン 監修・序 高山宏 訳 中澤豊『メディアの法則』 NTT出版 20002年

 の講読メモです。

 水色の箇所は本の内容ではなくわたしの感想や推察です。
 灰色の部分はわたしの注です。
 緑色の部分は、文章の内容としては脇道だけれども、わたしの興味を引いたので抜粋した部分です。

 この記事ではコメントを許可しているので、わたしが何か間違ったことを書いていたり、問題のある書き方をしていたり、耳寄り情報があるなどの場合は、コメントに書き込んでお知らせいただけると大変助かります!

監修・高山宏氏による序

『メディアの法則』はマクルーハンの遺稿

 マクルーハンもオングもイエズス会の人!
 エリザベス・シューエル『オルペウスの声--詩と自然誌』(1960)
 エリオット カトリック・リヴァイヴァル
 カトリック・パラノイアとしてのマクルーハン・メディア論の台頭
 ↑20世紀のカナダ カトリックとプロテスタントがぶつかり合う地

『メディアの法則』の拠り所 図と地の理論 エドガル・ルービン(ルビンの壺)
 マックス・ヴェルトハイマー ゲシュタルト心理学
 ユングの元型論ー「隠されていた地の浮上」--ノースロップ・フライの元型・神話批評

「分析」から「統合」への時代だったポストモダン
『メディアの法則』は、「分析」と「総合」の関係の額である文学を最大級のスケールで捉え直す文学論・詩学でもある(高山)

「メディア」の概念を本来の神秘主義宗教での宇宙的含意(巫女、導者)まで突き戻す
 メディエータ=媒介者≒霊媒師という言葉もあるもんね。

 マクルーハンの、聖数4へのこだわり
 素数2の平方=総合化・積分化をめざすあらゆる想像力に力を与える「普遍の鍵」
 積分化とは何かについては、積分について調べたらちょっと分かったかも。これまでの歩みを総合したり、蓄積として見たりすることかな。

 中心が何処にもあって周縁とか円周がどこにもない球=マクルーハンがイメージする聴覚的世界=中世のスコラ学での神の定義
 聴覚的世界を神秘化しすぎることの問題点も述べられるようになりたい。その上にじゃないとわたしがどう考えるのかまで考えが行き着かないな。

「電子メディア空間における知覚と身体性についての議論に『グーテンベルクの銀河系』(1962)が立脚点になる(要約)」(松岡正剛)
 マクルーハンは消費されてきたと筆者は主張

『グーテンベルクの銀河系』は印刷形式、ページフェースの視覚的印象が斬新
 モザイク的論述法 ロマン派の「断片(フラグメンテ)」 スーザン・ソンタグなら「並置(ジャクスタポジション)」と呼ぶだろう手法
 断片を使って総合に向かうのは読者、きみ自身なのですよ、というわけだ
 なにそれ超かっこいい!!! わたしもそれやりたい!!!! グーテンベルクの銀河系読まなきゃ!
 メディア感覚の良い現代批評は自らの紙面構成や活字級数にまで細かくデザイン的配慮を行き渡らせないではおかない
 なんかキャシー・アッカーの『血みどろ臓物ハイスクール』も、あれは形態としては物語だとは思うけど(批評ではなく、ってことね)似た美意識というか哲学を感じるなぁ
 本そのものの構造を通してメディア論の中心課題を論じる、いやパフォームする
 紙面と遊ぶものこそポストモダン思想(筆者の主張)

『オルペウスの声』(シューエル)もそう。
 長い文章を小刻みに切って、それぞれに内容をあらかじめ要約する、長めの文章になった見出しがつく。
 文章になった見出し。イメージとしては文章になったタイトル(web小説でお馴染みの)? いや、どっちかというと詩や短歌の前の詞書(ことばがき)を思わせる! うん、それがぴったり似てる気がする。
 マクルーハンのテトラッド・ページ、
 シューエルの「メタファー」論を使った自作の詩の「オルペウス詩篇」
 シューエル曰く、「哲学に接するギリギリのところで文学は散文からどうしても詩になる」
「世態風俗の描写」(高山宏)に留まれば散文になるのかもしれないが、哲学しようとするとどうしても詩になる、と。確かに散文が「実用的な、写実的な、覚書的な、即物的な文章」だとするとそりゃそうなるわな。

 形式と内容がマッチする表現 一冊の書冊として存在する批評
 こんなん芸術作品じゃん。それも現代アート的なやつじゃん。わたしが目指すものじゃん。
「アルファベットによる視覚文化の終わり」を論じるからには
 これはでも、「古いメディアである書籍として出すからには、そして古いメディアの環境に慣れた人々に向かって書くからには、古い書き方で新しいものを論じるべき」という意見もありそうね。

「詩」と「メタファー」に現れる「総合化」への動き--シューエル
↑をメディア論という衣装の下でやっているのがマクルーハン
 合理精神の負の力、諸観念の「分断」を総合してくれるもの→シューエルはメタファーに、マクルーハンは電脳が可能にしてくれる聴覚空間に見出していく。
 そして「詩」へ。
 悔しいけどこの「統合」を詩に求めるという点については完全に同意してしまうな。メタファーも分かるかも。シューエル読みたくなった。
 一文一義とか、そういう世界じゃない言葉だから、詩や格言というのは。いくつもの意味をプリズムのように屈折させて単一の点に集める(『メディアはマッサージである』より)もの。
 ただ聴覚的世界=詩なのかどうかは疑っていかないといけない。安易にそういうことにしたいからこそ疑って、本当にそうらしいと言えるまでは保留しないと。

「普遍記号」論のライプニッツ世界の回復

 T.S.エリオットの「伝統と個人の才能」(1919)
 1910年代 世界の断片化の悪い予感が未曾有の大戦争で現実のものとなった
 じゃあ今は統合による搾取の世界なんだね
 20世紀の思想は結局、「再総合化の夢による分断の弥縫(びほう)」の一つに収斂している?
 グスタフ・ルネ・ホッケ『文学におけるマニエリスム』(1959) マニエリスムもまた、「断片化→総合」「再-積分」の本 メタファーの機能に文学の世界回復の力を賭けるマニエリスム
 メディア詩学

 分断された世界のオルペウス的統一
 緊縛された世界のプロ(メ)テウス的解縛

 バーバラ・スタフォード『ボディ・クリティシズム』(1991)
 彼女は反近代の癒しの世界をも、電脳が可能にした視覚的世界として描こうとした
 ⇔これからは聴覚と「共鳴する間」だとするマクルーハン(基本的に視覚/聴覚、分断/総合など二元的)
「共鳴する間」とは何か? これは用語集を作るなら入れておくべきかな。
 スタンフォードの最新刊(2002年当時)『ヴィジュアル・アナロジー--つなぐ芸術(アート)としての人間意識』(1999) 「つなぐ」力としてのメタファーと「愛」 人間意識を電脳的プリコラージュとする
 結合知

 1920’s-1930’s アスコーナ(スイス) エラノス・マインド
 1950’s-1960’s トロント 「カトリック・パラノイア」

 エラノス会議 ユングを中心とした元型心理学、人類学と心理学の本質的なところでの融通、外殻としての量子物理学とゼン・ブッディズム→近代合理精神の行き詰まりを突破しようとしたサイ科学 サイはサイキックのサイ

 1950’s  電脳時代の本格的幕開け+「思考の生物学」知が生物学からインスピレーションを受け始める
「思考の生物学」! これがフーコーが批判した「自然」とか「生物学的事実」とか「本能」とかに繋がっちゃうわけね……難しいよね、人間の脳や精神だって確かに生物学的に生まれたものとはいえ、その脳を使って人間は社会を構築してるわけだから、生物学的自然じゃなくて社会的=人為的、恣意的に作られた「自然」になってっちゃうのはむしろ必然なわけで
 合理 VS 非合理 → 左脳 VS 右脳(スプリット・ブレイン理論)1970’sからはこれが普通に

 20世紀のサイキックな文化形成史(ハイゼンベルクからニュー・エイジ運動まで)
 ワイリー・サイファー『文学とテクノロジー』(1968) マルクス主義も取り込んでいる

 マクルーハンは英文学者である。ブレイクに始まりジョイスに終わる、メディア色濃厚な作家や詩人を相手にした英文学者
 シューエルの批評
 18世紀の崇高美 アーネスト・テューヴソンの自然論・「恩寵」論は観念史派のバイブル
 ↑これらもマクルーハンは自分のチャートに入れ込んでいる
「観念史」も日本ではろくに知られていない(2002年当時)

『メディアの法則』以前に邦訳されるべきものはいっぱいある。そうして初めて『メディアの法則』の真のレジュメ力、発展力の見事さは知られるのではないか。
 電脳メディア論がトリウィウムー中世スコラ学の修辞学や弁証術と直結する呼吸
 電脳文学論にスライドしていった文学研究者リチャード・レイナム『雄弁の動機』(1976)
 修辞学を知らないで読んでいる(つもりの)シェイクスピアなど、「文学」という名の幻でしかない
 えぇ……そりゃーまあ……ヨーロッパの修辞学は知らんかもしれないから、ヨーロッパの文学を読むには確かにヨーロッパの修辞学勉強する必要があるだろうけどさ……
「修辞学を」知らないって言い方は流石に言い過ぎじゃないのか……
 わかんない 修辞学ってもはや文学どころか語学の世界にも行くもんなあ 言葉の数、文化圏の数ほど修辞学にも種類がある気がする……
 とりあえず日本人だって何かの修辞的な技法や感覚は身についてると思う、ただそれがヨーロッパ的なものでは全然無いというだけで

 まあ、いずれ修辞学も掘ってみないといけない気はするけどほんとに言葉と文化の違いっていうのに超ぶつかりそうで何からやったらいいのかわかんない感じ…… ああでも分析に使うんなら、その分析対象が属している文化圏の修辞学の系譜を辿ればいいのか……それならまあ足掛かりはあるか……
 日本のものだったら明治維新以降輸入された西洋の修辞学の受容と、それ以前の日本が使ってきた修辞学や修辞学的感覚の両方を考慮すればいいのかな
 だからつまりヨーロッパのものを読むなら、ヨーロッパの修辞学をちゃんと勉強しろよって著者は言いたいのかも

 フランシス・ベーコン『新機関(1620)』→ヴィーコ『新しい学(1725)』→『メディアの法則』は一線上に並ぶ(マクルーハン曰く)
 シューエルもベーコン→ヴィーコ→『オルペウスの声』 そこからシェイクスピアの喜劇、リルケ(1875-1926)の詩、カッシーラの哲学を一線上に並べようとしている

↑のような「知る」ことの「方法」をめぐる思索の系譜を追えているのがジョージ・スタイナー
「知る」ことの「方法」をめぐる思索=身近な言葉にすると「世界観」かな。
スタイナー『脱領域の知性--文学言語革命論集』
「言語学と生物発生学との間の語彙の目覚ましい出会い」「生命の輪郭線」
「ルネサンスーバロック期の、全的見解、文法と人語の創造的容態は全自然の中にその対応物を持つという信念(要約)
 つまり、言葉と自然、思想と実践、精神と物体、シニフィアンとシニフィエを分けない考え方? ポール・オースターの小説『ガラスの街』に出てくる架空の言語学者(だっけ)ピーター・スティルマン(父)が言う「バベルの塔以後の自然界とバラバラになった言葉」っていうのは、この言葉と自然の分離にも関係ありそう
 シニフィアンとシニフィエでお馴染みのソシュールは1910年代に亡くなっている。

 1950’s〜 電脳マニエリスムの時代

 マクルーハンはもはや「メディア」論という狭い世界のものでは無い

 中世スコラ学がわからねばならない。
 ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』(1980)の世界
 何かの対象をと言うよりは「方法」そのものを問う手法 トピカの修辞学から「共通感覚」までおさえて然るべくヴィーコする中村雄二郎
 シューエル、シュタイナー、マクルーハンを一線上に教えてみよ
 フライもマクルーハンも、メディアと神秘主義に同時に深く関わったウィリアム・ブレイクから出発している

2021.06.11 書き始め

 

 

 

 

マクルーハン『メディアはマッサージである』メモ

マーシャル・マクルーハン、クエンティン・フィオーレ 門林岳史 訳 加藤賢策 デザイン監修 『メディアはマッサージである』 河出書房新社 2015年 
……の、講読メモです。

 水色の部分は本に書いてあった内容ではなく、わたしの感想や推測です。
 灰色の部分はわたしの注です。

 この記事はコメントを許可していますので、わたしが間違ったことを書いてしまっていたり、問題のある書き方をしていたり、耳寄り情報があるなどの場合、コメントをいただけると大変嬉しいです。

目次
 アルファベットと印刷技術、視覚の世界 目の延長
 電気技術 脳の神経回路の延長
(オーディオ技術) 聴覚の世界 耳の延長
 環境について
 プロ・アマ
 

アルファベットと印刷技術、視覚の世界 目の延長
 書物、絵画…美術

 断片化、すなわち専門化と分離、分類 目の中立的世界 
 目標・職業とは断片化・専門化されたもの

 環境すべてを視覚的、空間的見地から見る習慣
 均質で、連続していて、かつ連結しているような時間と空間に関連づけて知覚する習慣
  ↑なんじゃこれは
  「この環境は、AとBとCとDとE(すべて均質)が、このような連続と連結を描いていることによって成立している時間と空間である」みたいな見方?
 額縁の中のものに一切干渉せずに見る、という態度
 美術=文化を図像に翻訳したもの→空間近くのあり方がかたちになったもの
 ルネサンス以後、西洋人は環境を目で見えるものとの関わりにおいて知覚してきた
 空間測定の形式的な単位でできた平面状に透視図法を用いて投影したもの=芸術家にとっての「空間」
 固定された観点からあらゆる現象に目を向けようとする根深い習慣

 印刷術により、流れ作業による大量生産で均質なものを流布させられる
「個人的に読む」ことができるようになる
 人に考えを吹き込むこと(inspire) 密かに企みを分かち合うこと(conspire) が可能になった
 個人主義という新たな信仰 私的観点 が可能になる
 他人との関わりから距離を持つ能力

 公衆を生み出した
 それぞれの私的な観点を携えて歩き回る人々
 断片化された視界たち

 直線の世界
 専門化は、その直線を部分ごとに=部門ごとに分けていくこと
 直線=連続体であること=合理性
 事実や概念を一続きにして連結することに、合理性や事実の論拠を求める
  ↑アカデミックライティングってまさにこういうものだよね。
  ↑電気技術が当たり前になった現代では、統計やデータの提示をこの代わりにしてしまう(良いのか悪いのか。「悪い」と思うのはオールドファッションなのか?)ことが増えた?
 文学的プロットによる社会 物語の筋_ストーリー・ライン

 もっとも意識的な経験はほとんど視覚性を持たない ことを視覚的人間(西洋文化における合理的な人間)は忘れている
 この文言はめちゃくちゃわたしの言いたいことを言うために使えそうだけど、「意識的な経験」とは何か? が言えないとふわふわしちゃう そこんとこどうなんですかマクルーハンさん
 視覚性とは「固定されたパースペクティブから見る、均質で連結した世界として知覚されるあり方」のこと?

 ペンから文明が生まれた
 話し言葉が思考へ、かたちを持った思考へ

 電気的コミュニケーションの時代においては遅すぎる

 ソクラテスによれば「真理の見せかけ」
 人を忘れっぽくさせるもの
 確かに、現代では「ネットで全部調べられるのだから、テストと称し人を閉じ込めて記憶している知識を問うことに何の意味があるのか?」という問いも飽きるぐらい提示されるが、それに近い転換がこの時代も起きていたのかも。
「書物に全部書いてあるのだから、人が経験を積んで自分(の身体と心)で覚えていくことに何の意味があるのか?」となっていたのかも。
 事実、もうここはわたしの価値観や人生論の話になるが、人々は自分が人生の中で経験して得たことよりも、何かすごそうな人が言っていることやすごそうな本に書いてあったことの方を信じて生きてしまいがちな社会になってるよね。

 理論と実践、想像と執行することを切り離す→もともとこの区別はあったものだと思い込まれる

 聴覚的なリズム、抑揚、休止をタイポグラフィで表そうとする
(例:フォント、字組み、書式……)

 著作権を作り出した

 専門化された聴覚=書き文字=視覚的メタファー

電気技術 脳の神経回路の延長
 テレビ、コンピューター、インターネット(WWW)……

 結合、相互関与 断片化されたものが再びまとまっていく 区別できない 
 流れていくもの、統合されたもの、融合したもの
 われわれ全員に、みんな同時に干渉してくる 距離を取ることも枠にはめることもできない
 相互依存→グローバルヴィレッジ
 関与し合って満たしたいという年中続く欲求
 役割 全面的関与

 共時的 即時的 すべてが同時に生起する 作用と反作用が同時
 環境と経験が相互作用しながら共存
 時間と空間は一つのもの という感覚
「時間」は止まり、「空間」は消え去った
 多次元的な空間感覚
 神話と深層の世界
 
 情報が即時的かつ連続的に私たちの中に流れ込んでくる かつめまぐるしく移り変わる
 データ分類からパターン認識へ 

 テレビとは触覚を持つ。もはや単に視覚的なものではない 視聴者を内包する(テレビの中の世界に取り込んでしまう)内包性を持つ。
 大衆を生み出した
 大衆文化という 環境=自然な直接経験、能動的な力
「自然な直接経験」と、「(最も)意識的な経験」は近い意味? どうなんだろう
 全面的な電気ドラマ

 ユーモア 物語の筋=連続性_シークエンスを持たず、複数の物語を重ね合わせて圧縮したもの
 CM 物語形式のための時間がない 省略的な編集、突然のズーム、フラッシュ・カット

 考えの即時のコピー
 自己表現→チームワークという中世以前への回帰
 これは残念ながらソーシャルメディアの台頭やネオリベラリズム的自己の在り方が必要とされるようになったことにより変わってしまった。「良かった頃のインターネット」では、インターネットは集合知=チームワークの世界だったけど、今は「みんなが芸術家のように振る舞うことを強いられている」社会。個性が重視されるなんて言葉では足りず、個性がなければならない社会。
 ……わたしは多分個性を持っちゃった側の人間だから、これから生きやすくなっていくんだろうけど。まあでもぶっちゃけ個性なんてみんなにもあるはずなんだけどね。「突き抜けるか同調しろ」っていう状態だからしんどいだけで。

 テレビは印刷技術の頽廃した形ではない
 今や映画も音楽もテレビコンテンツも、演劇やコンサートすらも、自分の好きなところに持っていけて、好きな時に触れるのを始め、好きな時にやめられる小説のようなものになっている気がする。……だから私的観点という概念は今でも健在……なのか……?
 いやでも、絶えず干渉してくる存在っていうのはやっぱあるか。SNS。そうするとやっぱ私的観点は昔ほど堅いものではないだろう。その輪郭は融解している気がする。
 近い「私的観点(のようなもの)」を持ったクラスタに個人が所属し、そのクラスタの干渉を常に受ける(だから個の輪郭が融和する)という感じか?

 そん中でも融和しなかった人が「個性」を持てるのかもしれない

 冷たい戦争
 情報処理装置としての環境 プロパガンダ
 対話が始まるとプロパガンダは終わる
 プログラマーではなくメディアに話しかけるべき
 メディアと「対話する」つまりメディアのメッセージに向き合うと、プロパガンダは終わる? イデオロギーに気づくとイデオロギーはうまく作用しなくなる的な?

 テレビとフォークソングのおかげで、思考と行動が近づき、社会参加が増えている

オーディオ技術) 聴覚の世界 耳の延長
 電話、蓄音器、レコード、マイク・アンプ・スピーカー、ラジオ、CD、テレビ、ライブビューイング、YouTube、音楽配信サービス、リモート演奏会……

 耳の魔術的世界 神秘

「かつて聴くことは信じることであった ヒアリング・ワズ・ビリーヴィング」 
 メイクビリーブという言葉の意味がまだあんまり分かってない。この一説と関係が深そうだから調べておく。

 境界も方向も水平線もない世界 精神の闇 感情の世界 
 原初的直感によって、恐怖によって生きていた
 うまく言えないけど、「現在しかない」という感じなのではないか。
 叙事詩で過去の話を聴くときも、「過去の話を聴いている今」「過去の話をうたっている今」しかない。
 書物のように、「振り返る」ことはできない。

 話し言葉がその社会のチャート図

 ペンから文明が生まれた
 話し言葉が思考へ、かたちを持った思考へ
(あえて同じことをここにも書いておく)
 逆に言うと、話し言葉の時代は(今の概念で)「思考」と呼べるものはなかったと言える。あったとしても今とは違った様式だっただろう。
「感情の世界に生きていた」と言うのだから、マクルーハン的には話し言葉は「合理的」な「思考」ではなく「感情」「神秘」を伝えるもの、と言いたいのかも。まあそうなんじゃないだろうか。

 そして、話し言葉はかたちを持たなかった、という「逆」も言える。これは私の研究的に重要そう。

 書物は私的に読めるけど、おしゃべりは相手がいないとできない。個人主義も話し言葉の時代には当然なかった。
 でも今は音の聴取も個人主義になれる。イヤホンやスマートフォンのおかげっちゃおかげだが、遡れば鉱石ラジオやトランジスタラジオもそう。ウォークマンは言わずもがな。

 聴覚的で、水平線もなく、嗅覚的な世界ーアルファベット以前の未開民族
 ここにはすごいプリミティヴィズムがあってあんまやだなあ。未開民族なんてきな臭いワード持ってこないで、聴覚芸術の世界って言うべきじゃないのかそこは。

 見えているものだけでなく、知っているもの全てをそこに詰め込む 描写したいものを全て説明できたと感じるまで 多次元的空間感覚
 これが聴覚芸術で起こることはあまりない。あったら面白いと思う。やっぱり目の世界の「見たまま」を引きずるのか、「実際に聞こえるように」聞かせる、つまり耳の再現をすることに徹しているように感じるし、特に注意を向けたい音しか鳴らさないのも、聴くべき音だけを拾うという耳の機能の再現?
 しかし叙事詩の世界なら、そもそもすべてお話の世界のことだからラジオドラマのように再現すべき「耳」はそこには存在しない。結果、語りの中に時間も空間もすべて詰め込まれている? ねむい

 原初的な感情、部族的な感情
 聴覚的空間に帰ってきた

 耳は特定の「観点」をひいきしない われわれは音に包まれている 音はわれわれの周りに継ぎ目のない織物を形作っている
「継ぎ目のない」という点が「環境」についての言及に似ている。音=環境=取り巻くもの=アンビエント、という感じ。

 一切焦点を合わせることなく、あらゆる方向からの音を聴く
 耳にはまぶたがない
 同時的な諸関係の世界

 ホメロスの『イリアス』が百科事典 精神的・倫理的・社会的生活のための教訓
 詩的・演劇的慣用表現 説得の技(修辞法) 狙った通りの心理的反応 ←抽象的・思弁的な推論に対する障害(forプラトン)
 真理を同調して記憶、想起
 霊魂と精神の集合的産物
 リズム・韻律・音楽
 心理や感覚に働きかけて「(心や身体で)わからせる」のが吟遊詩人の歌だった
 テレビとフォークソングのおかげで、思考と行動が近づき、社会参加が増えている(マクルーハンの時代)

 話し言葉の隠喩的モード
 多くの意味を単一の点に集めるプリズム
 ユーモア 物語の筋=連続性_シークエンスを持たず、複数の物語を重ね合わせて圧縮したもの にも近い?
 より多くのことを示唆するため、「正確さ」を犠牲に
 因果関係が織りなす複雑な集合を一気に察知するモード=神話
 わたしが執着している解釈の自由度も、ここにある気がする!

 聴衆を身に纏うこと、環境を身に纏うこと、時代全てを身に纏うこと=神話
 ビートルズの例え 英語を見に纏うことで音楽的効果をもたらすことができるようになった
 ↑なんじゃこれは
「環境」を己から遠ざける視覚的な世界観ではなく、むしろ纏ってしまうこと?
 遠くのものとして分析し分類しそれを連結させ直線的に語るのではなく、
「環境」を積極的に受け入れ、その中で感じられるもの(=環境)を複合的なものとして単一の点に集めて表現をすること?
「マクルーハンの読み方」みたいな文献を読むのもあり。ただし膨大になってしまいそうだけど……
 まさか「最も意識的な経験」って、「環境」のことなのか?
 若者は、この宇宙を見に纏うための公式を求めている(宇宙から距離を置いて観察するのではなく)
 三人称ではなく一人称

 話し言葉による概念だけで理解するのは困難とされる 非可視的だから
「話し言葉による概念」が残っている世界=キャッチコピー、格言・名言、パンチライン、聴覚的な詩
 意味は多義的で、耳に残る(=心に残る)言葉、言い回し わたしはそういう文体を好んでいるな 例:「再会を必ず」(あさのあつこ『NO.6』より)、「僕には絶望する権利がある」(伝・フランツ・カフカ)、「世界は美しくなんかない。そしてそれ故に美しい」(時雨沢恵一『キノの旅』より) それぞれ省略だったり逆説だったり対句(対照法?)だったり、詩的な修辞法が使われている

 ケージは、音は音、音楽は環境を見に纏うこととして、音について人々が持っている/あるいは持とうとしている観念をすて(それは環境から身を引いて観察する視覚的見方だから)ようとした。
 同時多発するメッセージ 口承言語による音楽の洪水 対位法的言葉 フィネガンズ・ウェイク

 耳が目には見えないものを掴むなら、記号化できないものも解読できよう
 聴覚芸術なら、トラウマのような記号化できない「体験自体」を作り出せる?
 マクルーハンへの批判も読まなきゃやばいなこれ、今やるなら

 専門化された聴覚=書き文字=視覚的メタファー
 とすると、やっぱりラジオドラマの音って視覚的なのでは……???

環境について

 われわれの感覚閥すべてに、日々の学習が発見のプロセスとなるようなシステム、知識、制御=芸術 を広げていく必要がある

 環境とは受動的な包紙ではなく、不可視の能動的プロセス
 芸術家が作るそれへの対抗的状況は、環境に直接注意を向ける手段をわれわれに与え、容易には知覚し得ない環境の詳細な様相を解明することができるようにするものである

 古い環境と新しい環境の相互作用

 19c→20c
 単一のモデル→複数のモデル
 発明の技法→判断の保留

 バックミラー越しに現在を見ている
「自分から遠ざかりつつ過去」を見ながら、われわれは未来に向かって進んでいる。

 新しい環境が要求している仕事を古い道具でこなそうとする失敗
〈死の舞踏〉「不条理演劇」

 メディアは、環境に変更を加えることで、そのメディアに固有の感覚比率を人々のうちに生み出す。生活に変更を加え、形作っている。

 人間が作り出したメディアという環境が、逆に人間の役割を定義する

プロ・アマ

 プロ
 環境的 全面化した環境パターンの中に個人を埋没させる 環境を疑わない
 分類し、専門的になる

 アマ
 直感、精神の独立性・独想性
 個人による全面的な察知能力、社会の基本原則を批判的に察知する能力

2021.6.8 書き始め
2021.6.9 追記1
2021.6.10 追記2