マクルーハン『メディアの法則』講読メモ1

マーシャル・マクルーハン+エリック・マクルーハン 監修・序 高山宏 訳 中澤豊『メディアの法則』 NTT出版 20002年

 の講読メモです。

 水色の箇所は本の内容ではなくわたしの感想や推察です。
 灰色の部分はわたしの注です。
 緑色の部分は、文章の内容としては脇道だけれども、わたしの興味を引いたので抜粋した部分です。

 この記事ではコメントを許可しているので、わたしが何か間違ったことを書いていたり、問題のある書き方をしていたり、耳寄り情報があるなどの場合は、コメントに書き込んでお知らせいただけると大変助かります!

監修・高山宏氏による序

『メディアの法則』はマクルーハンの遺稿

 マクルーハンもオングもイエズス会の人!
 エリザベス・シューエル『オルペウスの声--詩と自然誌』(1960)
 エリオット カトリック・リヴァイヴァル
 カトリック・パラノイアとしてのマクルーハン・メディア論の台頭
 ↑20世紀のカナダ カトリックとプロテスタントがぶつかり合う地

『メディアの法則』の拠り所 図と地の理論 エドガル・ルービン(ルビンの壺)
 マックス・ヴェルトハイマー ゲシュタルト心理学
 ユングの元型論ー「隠されていた地の浮上」--ノースロップ・フライの元型・神話批評

「分析」から「統合」への時代だったポストモダン
『メディアの法則』は、「分析」と「総合」の関係の額である文学を最大級のスケールで捉え直す文学論・詩学でもある(高山)

「メディア」の概念を本来の神秘主義宗教での宇宙的含意(巫女、導者)まで突き戻す
 メディエータ=媒介者≒霊媒師という言葉もあるもんね。

 マクルーハンの、聖数4へのこだわり
 素数2の平方=総合化・積分化をめざすあらゆる想像力に力を与える「普遍の鍵」
 積分化とは何かについては、積分について調べたらちょっと分かったかも。これまでの歩みを総合したり、蓄積として見たりすることかな。

 中心が何処にもあって周縁とか円周がどこにもない球=マクルーハンがイメージする聴覚的世界=中世のスコラ学での神の定義
 聴覚的世界を神秘化しすぎることの問題点も述べられるようになりたい。その上にじゃないとわたしがどう考えるのかまで考えが行き着かないな。

「電子メディア空間における知覚と身体性についての議論に『グーテンベルクの銀河系』(1962)が立脚点になる(要約)」(松岡正剛)
 マクルーハンは消費されてきたと筆者は主張

『グーテンベルクの銀河系』は印刷形式、ページフェースの視覚的印象が斬新
 モザイク的論述法 ロマン派の「断片(フラグメンテ)」 スーザン・ソンタグなら「並置(ジャクスタポジション)」と呼ぶだろう手法
 断片を使って総合に向かうのは読者、きみ自身なのですよ、というわけだ
 なにそれ超かっこいい!!! わたしもそれやりたい!!!! グーテンベルクの銀河系読まなきゃ!
 メディア感覚の良い現代批評は自らの紙面構成や活字級数にまで細かくデザイン的配慮を行き渡らせないではおかない
 なんかキャシー・アッカーの『血みどろ臓物ハイスクール』も、あれは形態としては物語だとは思うけど(批評ではなく、ってことね)似た美意識というか哲学を感じるなぁ
 本そのものの構造を通してメディア論の中心課題を論じる、いやパフォームする
 紙面と遊ぶものこそポストモダン思想(筆者の主張)

『オルペウスの声』(シューエル)もそう。
 長い文章を小刻みに切って、それぞれに内容をあらかじめ要約する、長めの文章になった見出しがつく。
 文章になった見出し。イメージとしては文章になったタイトル(web小説でお馴染みの)? いや、どっちかというと詩や短歌の前の詞書(ことばがき)を思わせる! うん、それがぴったり似てる気がする。
 マクルーハンのテトラッド・ページ、
 シューエルの「メタファー」論を使った自作の詩の「オルペウス詩篇」
 シューエル曰く、「哲学に接するギリギリのところで文学は散文からどうしても詩になる」
「世態風俗の描写」(高山宏)に留まれば散文になるのかもしれないが、哲学しようとするとどうしても詩になる、と。確かに散文が「実用的な、写実的な、覚書的な、即物的な文章」だとするとそりゃそうなるわな。

 形式と内容がマッチする表現 一冊の書冊として存在する批評
 こんなん芸術作品じゃん。それも現代アート的なやつじゃん。わたしが目指すものじゃん。
「アルファベットによる視覚文化の終わり」を論じるからには
 これはでも、「古いメディアである書籍として出すからには、そして古いメディアの環境に慣れた人々に向かって書くからには、古い書き方で新しいものを論じるべき」という意見もありそうね。

「詩」と「メタファー」に現れる「総合化」への動き--シューエル
↑をメディア論という衣装の下でやっているのがマクルーハン
 合理精神の負の力、諸観念の「分断」を総合してくれるもの→シューエルはメタファーに、マクルーハンは電脳が可能にしてくれる聴覚空間に見出していく。
 そして「詩」へ。
 悔しいけどこの「統合」を詩に求めるという点については完全に同意してしまうな。メタファーも分かるかも。シューエル読みたくなった。
 一文一義とか、そういう世界じゃない言葉だから、詩や格言というのは。いくつもの意味をプリズムのように屈折させて単一の点に集める(『メディアはマッサージである』より)もの。
 ただ聴覚的世界=詩なのかどうかは疑っていかないといけない。安易にそういうことにしたいからこそ疑って、本当にそうらしいと言えるまでは保留しないと。

「普遍記号」論のライプニッツ世界の回復

 T.S.エリオットの「伝統と個人の才能」(1919)
 1910年代 世界の断片化の悪い予感が未曾有の大戦争で現実のものとなった
 じゃあ今は統合による搾取の世界なんだね
 20世紀の思想は結局、「再総合化の夢による分断の弥縫(びほう)」の一つに収斂している?
 グスタフ・ルネ・ホッケ『文学におけるマニエリスム』(1959) マニエリスムもまた、「断片化→総合」「再-積分」の本 メタファーの機能に文学の世界回復の力を賭けるマニエリスム
 メディア詩学

 分断された世界のオルペウス的統一
 緊縛された世界のプロ(メ)テウス的解縛

 バーバラ・スタフォード『ボディ・クリティシズム』(1991)
 彼女は反近代の癒しの世界をも、電脳が可能にした視覚的世界として描こうとした
 ⇔これからは聴覚と「共鳴する間」だとするマクルーハン(基本的に視覚/聴覚、分断/総合など二元的)
「共鳴する間」とは何か? これは用語集を作るなら入れておくべきかな。
 スタンフォードの最新刊(2002年当時)『ヴィジュアル・アナロジー--つなぐ芸術(アート)としての人間意識』(1999) 「つなぐ」力としてのメタファーと「愛」 人間意識を電脳的プリコラージュとする
 結合知

 1920’s-1930’s アスコーナ(スイス) エラノス・マインド
 1950’s-1960’s トロント 「カトリック・パラノイア」

 エラノス会議 ユングを中心とした元型心理学、人類学と心理学の本質的なところでの融通、外殻としての量子物理学とゼン・ブッディズム→近代合理精神の行き詰まりを突破しようとしたサイ科学 サイはサイキックのサイ

 1950’s  電脳時代の本格的幕開け+「思考の生物学」知が生物学からインスピレーションを受け始める
「思考の生物学」! これがフーコーが批判した「自然」とか「生物学的事実」とか「本能」とかに繋がっちゃうわけね……難しいよね、人間の脳や精神だって確かに生物学的に生まれたものとはいえ、その脳を使って人間は社会を構築してるわけだから、生物学的自然じゃなくて社会的=人為的、恣意的に作られた「自然」になってっちゃうのはむしろ必然なわけで
 合理 VS 非合理 → 左脳 VS 右脳(スプリット・ブレイン理論)1970’sからはこれが普通に

 20世紀のサイキックな文化形成史(ハイゼンベルクからニュー・エイジ運動まで)
 ワイリー・サイファー『文学とテクノロジー』(1968) マルクス主義も取り込んでいる

 マクルーハンは英文学者である。ブレイクに始まりジョイスに終わる、メディア色濃厚な作家や詩人を相手にした英文学者
 シューエルの批評
 18世紀の崇高美 アーネスト・テューヴソンの自然論・「恩寵」論は観念史派のバイブル
 ↑これらもマクルーハンは自分のチャートに入れ込んでいる
「観念史」も日本ではろくに知られていない(2002年当時)

『メディアの法則』以前に邦訳されるべきものはいっぱいある。そうして初めて『メディアの法則』の真のレジュメ力、発展力の見事さは知られるのではないか。
 電脳メディア論がトリウィウムー中世スコラ学の修辞学や弁証術と直結する呼吸
 電脳文学論にスライドしていった文学研究者リチャード・レイナム『雄弁の動機』(1976)
 修辞学を知らないで読んでいる(つもりの)シェイクスピアなど、「文学」という名の幻でしかない
 えぇ……そりゃーまあ……ヨーロッパの修辞学は知らんかもしれないから、ヨーロッパの文学を読むには確かにヨーロッパの修辞学勉強する必要があるだろうけどさ……
「修辞学を」知らないって言い方は流石に言い過ぎじゃないのか……
 わかんない 修辞学ってもはや文学どころか語学の世界にも行くもんなあ 言葉の数、文化圏の数ほど修辞学にも種類がある気がする……
 とりあえず日本人だって何かの修辞的な技法や感覚は身についてると思う、ただそれがヨーロッパ的なものでは全然無いというだけで

 まあ、いずれ修辞学も掘ってみないといけない気はするけどほんとに言葉と文化の違いっていうのに超ぶつかりそうで何からやったらいいのかわかんない感じ…… ああでも分析に使うんなら、その分析対象が属している文化圏の修辞学の系譜を辿ればいいのか……それならまあ足掛かりはあるか……
 日本のものだったら明治維新以降輸入された西洋の修辞学の受容と、それ以前の日本が使ってきた修辞学や修辞学的感覚の両方を考慮すればいいのかな
 だからつまりヨーロッパのものを読むなら、ヨーロッパの修辞学をちゃんと勉強しろよって著者は言いたいのかも

 フランシス・ベーコン『新機関(1620)』→ヴィーコ『新しい学(1725)』→『メディアの法則』は一線上に並ぶ(マクルーハン曰く)
 シューエルもベーコン→ヴィーコ→『オルペウスの声』 そこからシェイクスピアの喜劇、リルケ(1875-1926)の詩、カッシーラの哲学を一線上に並べようとしている

↑のような「知る」ことの「方法」をめぐる思索の系譜を追えているのがジョージ・スタイナー
「知る」ことの「方法」をめぐる思索=身近な言葉にすると「世界観」かな。
スタイナー『脱領域の知性--文学言語革命論集』
「言語学と生物発生学との間の語彙の目覚ましい出会い」「生命の輪郭線」
「ルネサンスーバロック期の、全的見解、文法と人語の創造的容態は全自然の中にその対応物を持つという信念(要約)
 つまり、言葉と自然、思想と実践、精神と物体、シニフィアンとシニフィエを分けない考え方? ポール・オースターの小説『ガラスの街』に出てくる架空の言語学者(だっけ)ピーター・スティルマン(父)が言う「バベルの塔以後の自然界とバラバラになった言葉」っていうのは、この言葉と自然の分離にも関係ありそう
 シニフィアンとシニフィエでお馴染みのソシュールは1910年代に亡くなっている。

 1950’s〜 電脳マニエリスムの時代

 マクルーハンはもはや「メディア」論という狭い世界のものでは無い

 中世スコラ学がわからねばならない。
 ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』(1980)の世界
 何かの対象をと言うよりは「方法」そのものを問う手法 トピカの修辞学から「共通感覚」までおさえて然るべくヴィーコする中村雄二郎
 シューエル、シュタイナー、マクルーハンを一線上に教えてみよ
 フライもマクルーハンも、メディアと神秘主義に同時に深く関わったウィリアム・ブレイクから出発している

2021.06.11 書き始め

 

 

 

 

マクルーハン『メディアはマッサージである』メモ

マーシャル・マクルーハン、クエンティン・フィオーレ 門林岳史 訳 加藤賢策 デザイン監修 『メディアはマッサージである』 河出書房新社 2015年 
……の、講読メモです。

 水色の部分は本に書いてあった内容ではなく、わたしの感想や推測です。
 灰色の部分はわたしの注です。

 この記事はコメントを許可していますので、わたしが間違ったことを書いてしまっていたり、問題のある書き方をしていたり、耳寄り情報があるなどの場合、コメントをいただけると大変嬉しいです。

目次
 アルファベットと印刷技術、視覚の世界 目の延長
 電気技術 脳の神経回路の延長
(オーディオ技術) 聴覚の世界 耳の延長
 環境について
 プロ・アマ
 

アルファベットと印刷技術、視覚の世界 目の延長
 書物、絵画…美術

 断片化、すなわち専門化と分離、分類 目の中立的世界 
 目標・職業とは断片化・専門化されたもの

 環境すべてを視覚的、空間的見地から見る習慣
 均質で、連続していて、かつ連結しているような時間と空間に関連づけて知覚する習慣
  ↑なんじゃこれは
  「この環境は、AとBとCとDとE(すべて均質)が、このような連続と連結を描いていることによって成立している時間と空間である」みたいな見方?
 額縁の中のものに一切干渉せずに見る、という態度
 美術=文化を図像に翻訳したもの→空間近くのあり方がかたちになったもの
 ルネサンス以後、西洋人は環境を目で見えるものとの関わりにおいて知覚してきた
 空間測定の形式的な単位でできた平面状に透視図法を用いて投影したもの=芸術家にとっての「空間」
 固定された観点からあらゆる現象に目を向けようとする根深い習慣

 印刷術により、流れ作業による大量生産で均質なものを流布させられる
「個人的に読む」ことができるようになる
 人に考えを吹き込むこと(inspire) 密かに企みを分かち合うこと(conspire) が可能になった
 個人主義という新たな信仰 私的観点 が可能になる
 他人との関わりから距離を持つ能力

 公衆を生み出した
 それぞれの私的な観点を携えて歩き回る人々
 断片化された視界たち

 直線の世界
 専門化は、その直線を部分ごとに=部門ごとに分けていくこと
 直線=連続体であること=合理性
 事実や概念を一続きにして連結することに、合理性や事実の論拠を求める
  ↑アカデミックライティングってまさにこういうものだよね。
  ↑電気技術が当たり前になった現代では、統計やデータの提示をこの代わりにしてしまう(良いのか悪いのか。「悪い」と思うのはオールドファッションなのか?)ことが増えた?
 文学的プロットによる社会 物語の筋_ストーリー・ライン

 もっとも意識的な経験はほとんど視覚性を持たない ことを視覚的人間(西洋文化における合理的な人間)は忘れている
 この文言はめちゃくちゃわたしの言いたいことを言うために使えそうだけど、「意識的な経験」とは何か? が言えないとふわふわしちゃう そこんとこどうなんですかマクルーハンさん
 視覚性とは「固定されたパースペクティブから見る、均質で連結した世界として知覚されるあり方」のこと?

 ペンから文明が生まれた
 話し言葉が思考へ、かたちを持った思考へ

 電気的コミュニケーションの時代においては遅すぎる

 ソクラテスによれば「真理の見せかけ」
 人を忘れっぽくさせるもの
 確かに、現代では「ネットで全部調べられるのだから、テストと称し人を閉じ込めて記憶している知識を問うことに何の意味があるのか?」という問いも飽きるぐらい提示されるが、それに近い転換がこの時代も起きていたのかも。
「書物に全部書いてあるのだから、人が経験を積んで自分(の身体と心)で覚えていくことに何の意味があるのか?」となっていたのかも。
 事実、もうここはわたしの価値観や人生論の話になるが、人々は自分が人生の中で経験して得たことよりも、何かすごそうな人が言っていることやすごそうな本に書いてあったことの方を信じて生きてしまいがちな社会になってるよね。

 理論と実践、想像と執行することを切り離す→もともとこの区別はあったものだと思い込まれる

 聴覚的なリズム、抑揚、休止をタイポグラフィで表そうとする
(例:フォント、字組み、書式……)

 著作権を作り出した

 専門化された聴覚=書き文字=視覚的メタファー

電気技術 脳の神経回路の延長
 テレビ、コンピューター、インターネット(WWW)……

 結合、相互関与 断片化されたものが再びまとまっていく 区別できない 
 流れていくもの、統合されたもの、融合したもの
 われわれ全員に、みんな同時に干渉してくる 距離を取ることも枠にはめることもできない
 相互依存→グローバルヴィレッジ
 関与し合って満たしたいという年中続く欲求
 役割 全面的関与

 共時的 即時的 すべてが同時に生起する 作用と反作用が同時
 環境と経験が相互作用しながら共存
 時間と空間は一つのもの という感覚
「時間」は止まり、「空間」は消え去った
 多次元的な空間感覚
 神話と深層の世界
 
 情報が即時的かつ連続的に私たちの中に流れ込んでくる かつめまぐるしく移り変わる
 データ分類からパターン認識へ 

 テレビとは触覚を持つ。もはや単に視覚的なものではない 視聴者を内包する(テレビの中の世界に取り込んでしまう)内包性を持つ。
 大衆を生み出した
 大衆文化という 環境=自然な直接経験、能動的な力
「自然な直接経験」と、「(最も)意識的な経験」は近い意味? どうなんだろう
 全面的な電気ドラマ

 ユーモア 物語の筋=連続性_シークエンスを持たず、複数の物語を重ね合わせて圧縮したもの
 CM 物語形式のための時間がない 省略的な編集、突然のズーム、フラッシュ・カット

 考えの即時のコピー
 自己表現→チームワークという中世以前への回帰
 これは残念ながらソーシャルメディアの台頭やネオリベラリズム的自己の在り方が必要とされるようになったことにより変わってしまった。「良かった頃のインターネット」では、インターネットは集合知=チームワークの世界だったけど、今は「みんなが芸術家のように振る舞うことを強いられている」社会。個性が重視されるなんて言葉では足りず、個性がなければならない社会。
 ……わたしは多分個性を持っちゃった側の人間だから、これから生きやすくなっていくんだろうけど。まあでもぶっちゃけ個性なんてみんなにもあるはずなんだけどね。「突き抜けるか同調しろ」っていう状態だからしんどいだけで。

 テレビは印刷技術の頽廃した形ではない
 今や映画も音楽もテレビコンテンツも、演劇やコンサートすらも、自分の好きなところに持っていけて、好きな時に触れるのを始め、好きな時にやめられる小説のようなものになっている気がする。……だから私的観点という概念は今でも健在……なのか……?
 いやでも、絶えず干渉してくる存在っていうのはやっぱあるか。SNS。そうするとやっぱ私的観点は昔ほど堅いものではないだろう。その輪郭は融解している気がする。
 近い「私的観点(のようなもの)」を持ったクラスタに個人が所属し、そのクラスタの干渉を常に受ける(だから個の輪郭が融和する)という感じか?

 そん中でも融和しなかった人が「個性」を持てるのかもしれない

 冷たい戦争
 情報処理装置としての環境 プロパガンダ
 対話が始まるとプロパガンダは終わる
 プログラマーではなくメディアに話しかけるべき
 メディアと「対話する」つまりメディアのメッセージに向き合うと、プロパガンダは終わる? イデオロギーに気づくとイデオロギーはうまく作用しなくなる的な?

 テレビとフォークソングのおかげで、思考と行動が近づき、社会参加が増えている

オーディオ技術) 聴覚の世界 耳の延長
 電話、蓄音器、レコード、マイク・アンプ・スピーカー、ラジオ、CD、テレビ、ライブビューイング、YouTube、音楽配信サービス、リモート演奏会……

 耳の魔術的世界 神秘

「かつて聴くことは信じることであった ヒアリング・ワズ・ビリーヴィング」 
 メイクビリーブという言葉の意味がまだあんまり分かってない。この一説と関係が深そうだから調べておく。

 境界も方向も水平線もない世界 精神の闇 感情の世界 
 原初的直感によって、恐怖によって生きていた
 うまく言えないけど、「現在しかない」という感じなのではないか。
 叙事詩で過去の話を聴くときも、「過去の話を聴いている今」「過去の話をうたっている今」しかない。
 書物のように、「振り返る」ことはできない。

 話し言葉がその社会のチャート図

 ペンから文明が生まれた
 話し言葉が思考へ、かたちを持った思考へ
(あえて同じことをここにも書いておく)
 逆に言うと、話し言葉の時代は(今の概念で)「思考」と呼べるものはなかったと言える。あったとしても今とは違った様式だっただろう。
「感情の世界に生きていた」と言うのだから、マクルーハン的には話し言葉は「合理的」な「思考」ではなく「感情」「神秘」を伝えるもの、と言いたいのかも。まあそうなんじゃないだろうか。

 そして、話し言葉はかたちを持たなかった、という「逆」も言える。これは私の研究的に重要そう。

 書物は私的に読めるけど、おしゃべりは相手がいないとできない。個人主義も話し言葉の時代には当然なかった。
 でも今は音の聴取も個人主義になれる。イヤホンやスマートフォンのおかげっちゃおかげだが、遡れば鉱石ラジオやトランジスタラジオもそう。ウォークマンは言わずもがな。

 聴覚的で、水平線もなく、嗅覚的な世界ーアルファベット以前の未開民族
 ここにはすごいプリミティヴィズムがあってあんまやだなあ。未開民族なんてきな臭いワード持ってこないで、聴覚芸術の世界って言うべきじゃないのかそこは。

 見えているものだけでなく、知っているもの全てをそこに詰め込む 描写したいものを全て説明できたと感じるまで 多次元的空間感覚
 これが聴覚芸術で起こることはあまりない。あったら面白いと思う。やっぱり目の世界の「見たまま」を引きずるのか、「実際に聞こえるように」聞かせる、つまり耳の再現をすることに徹しているように感じるし、特に注意を向けたい音しか鳴らさないのも、聴くべき音だけを拾うという耳の機能の再現?
 しかし叙事詩の世界なら、そもそもすべてお話の世界のことだからラジオドラマのように再現すべき「耳」はそこには存在しない。結果、語りの中に時間も空間もすべて詰め込まれている? ねむい

 原初的な感情、部族的な感情
 聴覚的空間に帰ってきた

 耳は特定の「観点」をひいきしない われわれは音に包まれている 音はわれわれの周りに継ぎ目のない織物を形作っている
「継ぎ目のない」という点が「環境」についての言及に似ている。音=環境=取り巻くもの=アンビエント、という感じ。

 一切焦点を合わせることなく、あらゆる方向からの音を聴く
 耳にはまぶたがない
 同時的な諸関係の世界

 ホメロスの『イリアス』が百科事典 精神的・倫理的・社会的生活のための教訓
 詩的・演劇的慣用表現 説得の技(修辞法) 狙った通りの心理的反応 ←抽象的・思弁的な推論に対する障害(forプラトン)
 真理を同調して記憶、想起
 霊魂と精神の集合的産物
 リズム・韻律・音楽
 心理や感覚に働きかけて「(心や身体で)わからせる」のが吟遊詩人の歌だった
 テレビとフォークソングのおかげで、思考と行動が近づき、社会参加が増えている(マクルーハンの時代)

 話し言葉の隠喩的モード
 多くの意味を単一の点に集めるプリズム
 ユーモア 物語の筋=連続性_シークエンスを持たず、複数の物語を重ね合わせて圧縮したもの にも近い?
 より多くのことを示唆するため、「正確さ」を犠牲に
 因果関係が織りなす複雑な集合を一気に察知するモード=神話
 わたしが執着している解釈の自由度も、ここにある気がする!

 聴衆を身に纏うこと、環境を身に纏うこと、時代全てを身に纏うこと=神話
 ビートルズの例え 英語を見に纏うことで音楽的効果をもたらすことができるようになった
 ↑なんじゃこれは
「環境」を己から遠ざける視覚的な世界観ではなく、むしろ纏ってしまうこと?
 遠くのものとして分析し分類しそれを連結させ直線的に語るのではなく、
「環境」を積極的に受け入れ、その中で感じられるもの(=環境)を複合的なものとして単一の点に集めて表現をすること?
「マクルーハンの読み方」みたいな文献を読むのもあり。ただし膨大になってしまいそうだけど……
 まさか「最も意識的な経験」って、「環境」のことなのか?
 若者は、この宇宙を見に纏うための公式を求めている(宇宙から距離を置いて観察するのではなく)
 三人称ではなく一人称

 話し言葉による概念だけで理解するのは困難とされる 非可視的だから
「話し言葉による概念」が残っている世界=キャッチコピー、格言・名言、パンチライン、聴覚的な詩
 意味は多義的で、耳に残る(=心に残る)言葉、言い回し わたしはそういう文体を好んでいるな 例:「再会を必ず」(あさのあつこ『NO.6』より)、「僕には絶望する権利がある」(伝・フランツ・カフカ)、「世界は美しくなんかない。そしてそれ故に美しい」(時雨沢恵一『キノの旅』より) それぞれ省略だったり逆説だったり対句(対照法?)だったり、詩的な修辞法が使われている

 ケージは、音は音、音楽は環境を見に纏うこととして、音について人々が持っている/あるいは持とうとしている観念をすて(それは環境から身を引いて観察する視覚的見方だから)ようとした。
 同時多発するメッセージ 口承言語による音楽の洪水 対位法的言葉 フィネガンズ・ウェイク

 耳が目には見えないものを掴むなら、記号化できないものも解読できよう
 聴覚芸術なら、トラウマのような記号化できない「体験自体」を作り出せる?
 マクルーハンへの批判も読まなきゃやばいなこれ、今やるなら

 専門化された聴覚=書き文字=視覚的メタファー
 とすると、やっぱりラジオドラマの音って視覚的なのでは……???

環境について

 われわれの感覚閥すべてに、日々の学習が発見のプロセスとなるようなシステム、知識、制御=芸術 を広げていく必要がある

 環境とは受動的な包紙ではなく、不可視の能動的プロセス
 芸術家が作るそれへの対抗的状況は、環境に直接注意を向ける手段をわれわれに与え、容易には知覚し得ない環境の詳細な様相を解明することができるようにするものである

 古い環境と新しい環境の相互作用

 19c→20c
 単一のモデル→複数のモデル
 発明の技法→判断の保留

 バックミラー越しに現在を見ている
「自分から遠ざかりつつ過去」を見ながら、われわれは未来に向かって進んでいる。

 新しい環境が要求している仕事を古い道具でこなそうとする失敗
〈死の舞踏〉「不条理演劇」

 メディアは、環境に変更を加えることで、そのメディアに固有の感覚比率を人々のうちに生み出す。生活に変更を加え、形作っている。

 人間が作り出したメディアという環境が、逆に人間の役割を定義する

プロ・アマ

 プロ
 環境的 全面化した環境パターンの中に個人を埋没させる 環境を疑わない
 分類し、専門的になる

 アマ
 直感、精神の独立性・独想性
 個人による全面的な察知能力、社会の基本原則を批判的に察知する能力

2021.6.8 書き始め
2021.6.9 追記1
2021.6.10 追記2

【お知らせ】新カテゴリ「STUDY」を開設しました。

shobu_study1

 宵部庭国国民の皆様、ごきげんよう。
 わたしからちょっとしたお知らせです。

 わたしは一国の女帝ですが、同時に大学4年生です。
 ということは、現在ぼちぼちといった感じですが、卒業研究・制作に邁進しています。

 ただ! ひとりで黙々と勉強するのは寂しいしモチベーションが湧かない上に、わたしはちょっとした面倒くさい体質を持っているのです。

 その体質とはズバリ、「学んだ分だけ喋らないと死ぬ体質」です。

「死ぬ」とは大袈裟に言ってしまいましたが、つまりこういったことです。

shobu_study1

 本を読んだり、人から話を聞いたりして、わたしたちは何かを学びますよね。

 でもそれはそれとして、もともとその本に書いてあるような分野について、本とは別のことや本と全く同じではないことを考えていたこともあっただろうし、本を読んだことで自分の考えが湧いてくることもたくさんあると思うんですよ。

 というか、前者を語る言葉を得ることや、後者と出会うこともまた、書いてある / 聞いた 内容を吸収することと同じくらい重要な、学びの意義だと思うのです。

 しかし、わたしはこの、「本の内容以外の、自分が考えていた・考えたこと」を、喋ったりブログに書いたりせずに黙っていると、忘れてしまうし、無自覚に抑圧してしまうことに気が付いたのです。

shobu_stury2

 そうなるとどうなるか。

 まず出てくる症状として、自分の直感を信用できなくなります。「感覚」も同義です。

 しかし、わたしはお勉強とは本来、何かモヤモヤしたものを言葉や数式で解析し説明するものだと考えているので、直感や感覚が鈍ってしまうと、自分がそもそも何を解き明かしたかったのかが分からなくなってしまいます。

 結果として、独自の観点というやつを失うことになりますし、自分の感覚が信じられなくなると、お勉強以外にも支障が出ます。

 わたしは特にそういう影響が顕著に出てしまう人間なので、どうなったかと言うと、
 周りの情報に振り回され、自分が何をしたいのか分からなくなり、お勉強とは関係のない自分の活動に関しても決断力がなくなったり自分のセンスを活かせなくなったりして迷走しました。\(^o^)/

 ということを大学3年間で繰り返してきて、やっと自分にとってバランスの良い勉強の仕方を身につけ始めた、それを上の図に表してみた、という感じです。

 そういうわけで、新カテゴリ「STUDY」は、わたしの健康的な卒研・卒制ライフのために、学んだことの覚書や、学んだことに関してわたしが考えていた/考えたこと・感じていた/感じたこと吐き出し口として使っていこうと思います。

 この記事でいきなりお勉強哲学みたいな大それた話をしてしまいましたが、ふつーに本読んだ内容まとめと考察・感想みたいなブログが多くなると思います。

 わたしの吐き出しのためとはいえ、これを読んでわたしの研究や、わたし自身により興味を持ってもらえたら嬉しいな……という打算的な気持ちもあったりして(ムフフ)。

 そんな感じでとりあえず開設してみます!

 そして関係者各位。

 一緒に卒研・卒制がんばろうね……死にそうになったら支え合おうね……!

 宵部憂