学校がしんどい君へ。8 〜お弁当グループ〜

 久々の更新になってしまいました。お待たせ。

 ここ数日、「え、もしかして社会ってマジでしんどい??? マジか……」って気が付いて、どよ〜んとした気持ちでいました。
 何かを決める重要な立場の偉い人たちが、みんな頭の硬い、古い、自分のことしか考えてない、想像力と共感力って知ってる?的な人たちなのかもしれないし、そうでなくても臆病で頑なで、だから何も変わらないのかもしれない、どんなに頑張ったって、声を上げたって、無駄なのかもしれない、なんてことを考えてしまって。
 でも、わたしたちよりずっとずっと年上の人はともかく、今還暦ごろの人たちとそれより年下の人たちとかは、どんどん価値観が変わってきてるんじゃないかなとも思うので、偉い人たちのことを見るのもとても大切だけど、周りを見渡したら仲間や仲間候補は結構いるんじゃないかなって希望も捨てずに行きたいね。

 話は大幅に変わって、「お弁当グループ」が苦手だった話をします。

 わたしは中高と女子校にいたからより気になったのか--いや、別に共学にいても女子のコミュニティってそんな感じなのかもしれないんだけど、お弁当グループっていうのがありました。
 いつも同じメンバーでお弁当を食べるわけです。
 つまり「特に仲良い人たち」「いつも一緒にいる人たち」ってことですね。

 でも正直に言うと、当時のわたしはそれが少し窮屈でした。
 あと、どこのグループに所属しているかで、そのクラス内の社会的立場が担保されるみたいなところもあって。
 カーストみたいな感じではなかったけど、「無所属」がいない感じがどうも座りが悪くて。
 国家を形成する最小単位が家族、みたいなように(わたしはこの考えには超反対ですが。だからお弁当グループという暗黙の制度に違和感があったのだと思います)、教室を構成する最小単位がお弁当グループでした。

 そもそも、自分がかなり変わった人間であるという自覚はあったので(自分が他の人とは違う、ということは、小学校時代の不登校により確固たる「事実」になったわけで)、「浮かないかどうか」「場の空気や平和を乱していないか」と常に気を使わねばいけない環境がしんどかったです。

 わたしはもともと一人をエンジョイする人間でした。暇なときはお話を作ったり歌を作ったりして、ずーっと一人で過ごせる一人遊びのプロだったのです。あと昔から創作フリークだった。
 だから、誰かと一緒にいるより一人でいる方が楽しいなんてことも、そりゃ当然ザラでした。
 その「誰か」が、わたしの話したいことを話せない相手なら尚更。
 わたしの話したいこと、というのが、哲学的だったり抜本的だったり時に過激だったりする問いだったから、当然と言えば当然なのですが。

 今思えば、落ち着いて一人でいればよかったのかもな、とも思います。
 もっと自分一人で自分に自信を持てる方法を(今のわたしが知っているように)早く知って、とにかく自分の世界だけを突き詰めればよかったんだろうなって。
 学校の中に自分と価値観の合う人がいないなら、本とか読んだりして、本の中に自分が共感できる考えの人を探したりとかして、どんどん深めていけばよかったかなーとか。まあ疲れててそれどころじゃなかったんですけど。

 どのグループにも入ってないけど、喋ってみると実はすげー面白いし、でもやっぱりよくわからんし、でもすげー面白い。そんな人になれたのかもなーって。

 とはいえ思春期・反抗期ですし、周りにどう見られているかが気になるのは当然です。
 それに、学校の価値観だと、やっぱりお弁当グループに属していないって言うのは社会性がないっていうふうに判断されていたかもしれません。
 ということで、当時の私も、お弁当グループになんとか身体を収めるのが生存戦略だったのでしょう。
 ものすごい閉塞感でしたが。

 一人でいるのが楽しいからといっても、話せる人が誰もいなくてもいいわけでは決してありません。孤立するのは嫌なのです。
 ただ、周りに話が合う、なんでも話せる人がいればよかったなって思ってました。
 そういう人と「お弁当グループ」になれたら、そりゃ学校行くの、学校生活楽しいだろうなって。
 わたしは残念ながら、そういう人に学校で出会えませんでした。
 ちゃんちゃん。

 今は出会えているので、とりあえずよかったです。

 ……なんだかしんどい話になってしまいましたが、「お弁当グループ」が苦手な仲間は、とりあえずここに一人います。そしてわたしがいるということは、仲間は絶対にもっといます。
 あなたは一人じゃありません。

 今日はここまで。次回は「閉塞感」について書こうと思います。
(気が変わるかもしれないけど)

 最後まで読んでくれてありがとう。
 また次回、お会いしましょう。

 わたしはあなたの味方です。
 ずっとね。

学校がしんどい君へ。7 〜思い出し悲しい〜

 わたしの悲しみは、だいたい「思い出し悲しい」なのかもしれないな、と最近考えています。

 自分の本意じゃないことを無理やりやれって言われて、でも身体が動かなくて怒られたあの時。
 具合が悪いんだと訴えても信じてもらえず責められたあの時。
 周りと話も感覚も合わなくて、敵意をぶつけられたりもして、ものすごい孤独を感じたあの時。
 誰かに常に見られていて、ちょっとでも普通じゃない、はみ出したことをしないように緊張していたあの時。

 そんなたくさんの「あの時」を、例えば空気の匂いとか、そこから今も続いている生きづらさとかの引き金で思い出して、過去から続いてきた今のすべてが全部全部悲しくなる。そういう悲しみなんじゃないかって。

 わたしのような感覚過敏は--っていうか学校がしんどい人って大体何かしら過敏(わたしからしたらこの過敏さが普通で、他の人が「鈍感」なわけですが)なんだと思うんで、わたしたちのような、って言いますが--わたしたちのような感覚過敏は、感覚をずっと覚えているんです。

 覚えているなんて意識は多分ありません。誰が何を言ったとか、何があったとかなら言葉にできますが、あの時こんな空気の匂いだった、なんて言葉にしている人は周りで見たことないし。言葉にすることがなかったら、自分が覚えていることすら忘れてしまうのは当然のこと。

 でも、覚えているんです。
 悲しかったこと、苦しかったこと、肚の底に鈍い痛みと圧迫感が垂れ落ちていく感覚を、空気の匂いと紐づけて、わたしはずっと覚えていた。

 単に言葉や記憶としてじゃなくて、あの時の感覚がそのまま蘇るんです。
 だから、今のことのように、今感じている感情と少しも変わらない鮮やかさで、悲しみや苦しみや不安や緊張や危機感を思い出してしまうんです。

 たった「この今」は何の問題もなくても、今までの悲しみにずっと苦しむ。
 こんな悲しみをずっと抱えてきた、今も抱え続けていることに悲しむんです。
 過去のことにならないんです。思い出せてしまうから。

 未来のことも似たようなものです。またあの時のような苦しみを味わいたくない!って恐怖します。それは、「あの時の苦しみ」が、今でも、はっきり、くっきり、思い出せるからです。

 何でもトラウマになってしまう体質だ、って自覚がありました。(本来 ”トラウマ” は、「思い出すこともできない無意識に隠れた心の傷」を意味するのですが、最近は単に「心の傷」という意味で使われることも多いので、あえてその意味で ”トラウマ” と呼びます)
 過敏なので苦しみを感じやすく、一度感じた苦しみをいつまでも覚えているからです。

 ……と、なんだか鬱々としてきましたが、でも。「思い出し悲しい」なのだと分かれば、今悲しいわけではないって分かります。

 ひとつ、自分の中で起きていることの構造がわかって安心しました。

 それに、今悲しいわけではないってことが分かれば、「じゃあ今は何が起きてるの?」って考えて見渡すことができます。

 見渡すことで、一つ一つ「今はあの時とは違う」ことを見つけて、安心することができます。

 同じなのは空気の匂いと自分の感情・感覚であって、例えばあの時に比べてわたしはずっと大人になったし、できることも増えたし、住んでいるところも違うし、親との関係も友達関係もずっといい方に変わったし……みたいに。

 あの時と現在を区別することができれば、未来のことも似たように対処できます。

 あの時と現在が違うのだから、未来もまた違うはずだって思えます。あの時と未来が同じようになってしまうわけがない、なぜならあの時と現在が違うのだから、と。
 これからは、あんなことは起こさせない、って、わたしは自分自身に誓います。現在の方が良くなったのだから、未来は現在よりもさらに良くなるはず、と。

 そこで「ふつう」に考えてしまうと、でもわたし、「ふつう」に生きられないし……みたいになってしまうのですが、そこは前回の「身体の自然に任せよ(さすれば上手くいく)」を信じ続けたいところです。

「身体の自然に任せよ、さすれば上手くいく」は、感覚過敏のお守りです。

 そもそも「ふつうの人」たちは、自分の身体からシグナルを受け取れないので、方法論やルールや成功法則を作ってそれに従うことで生活を充実させるのではないでしょうか?

 とすると、わたしたち感覚過敏がその方法論やルールに従えないのも自然な気がします。

 そもそも、わたしたちの身体が発する命令のほうが、方法論の元祖なのですから。

 自分の身体が教えてくれるお告げと、外側からやってくる方法論。元祖の方が優先されるのは当然です。
 そりゃ身体も動かなくなるし、「ふつうの上手いやり方」に従えなくもなります。

 わたしたちの身体にとっては、わたしたちの身体が教えてくれるもののほうがホンモノなわけですから。

 この「感覚過敏」っていうのも何だか味気ないですね。躁鬱大学(noteで連載されている読み物です。超おすすめ!!!)学長の坂口恭平さんは、「躁鬱人」とか「狩人」「シャーマン・メディスンマン」「医人」「酋長」など、色々なロマンあふれる表現(表現であり考察)をしているので、わたしも彼に倣って「感覚過敏人」をいい感じの言葉で表してみたいです。

 っていうか、過敏なのは何も感覚、五感などの感覚だけとは限りません。社会的な理不尽や他者の痛みに敏感、というのも十分生きづらさにつながりますから、立派な過敏体質です(繰り返しになりますが、わたしはそれが「過敏」と扱われるほうが問題だと思うんですけどね!!!)。
 というわけで、ひっくるめて「過敏人」と呼ぶことにしましょうか。

 わたしたち過敏人は、成功法則や方法論や自分ルールが要らない生き物なのかもしれません。要るとすれば、「身体の自然に任せる、従う」というルールくらいなのかも。

 今回のまとめですが、

・「ひたすら悲しい」「今までずっと悲しかったことが悲しい」は ”思い出し悲しい” かもしれない。
 ”思い出し悲しい” だとわかると、今のことでも未来のことでもないことが分かり、安心できる。

・過敏人は “思い出し悲しい” の名人だが、その分、身体からお告げ(自分専用の成功法則)を受け取ることができるっぽい。
 だから過敏であるのも悪いことばっかりじゃないってことは覚えておいて。

 ということです。

 最後まで読んでくれてありがとう。

学校がしんどい君へ。6〜身体の自然〜

 なんか、自分はずーっと、自覚したのは小4からだけど、生きづらい側の人間なので、楽に生きる方法を探して色んな本を読んだんだけどさ。

 わたしが「これだ!」って思ったもの全部、根底にあるのは同じ一つのメッセージだなって気づきはじめた。

「身体の自然に任せよ。」

 これなんじゃないかって思った。

 わたしのような感覚過敏、周りの世界が発する刺激も自分の中の感覚もものすごく繊細に全部感じ取ってしまう人間は、「身体の自然」のセンサーがものすごいんじゃないかって。

 だから、自分の身体が発する自然に沿って歩いて行けば、とんでもないところに、この身体がわたしを連れていってくれるんじゃないかと思って。

 つい最近、坂口恭平さんの「躁鬱大学」を読んでいて気づいた。

 わたしは「自分」というものが物凄くあるし、褒められたいっていうのがモチベになる感覚がわからなかったり、一人の時間大好きで人と過ごしたらその1.5倍ひとりの時間が必要だったり、ノリノリで何か作業をしていてもフツーに疲れたりするので、躁鬱人ではない気がするけど、それ以外の部分はすごく共感できたんだよね、この連載。とてもおすすめです。

 今自分がしたいことを自分に聞く。その連続でとりあえず生きていこうと思います。

 坂口さんは、そういう好き勝手やる生き方は躁鬱人の生存戦略だ、的なことを(その通りのことは言ってないかもしれません。わたしの解釈です、念のため)言っているのですが、わたしにとってもそうで。

 生存戦略ってどういうことかっていうと、好き勝手生きられないと、躁鬱人もわたしも死にたくなってしまうらしいんだよねどうも。

 わたしが昔から、「もっとちゃんとしなさい!」と言われては「ちゃんとするってことはわたしがわたしじゃなくなることなんだ、じゃあ死んだ方がマシだ」と泣いて「そういうことじゃない!」ってまた怒られるっていうのを繰り返してきた理由もここにあったんだなーと。

 好き勝手できないなんて生きててもしょうがないじゃん、みたいなやつ。

 それでやってみて、何が自分のところにやってくるのかにとても興味がある、というお話でした。

 しょうがないじゃん、ちゃんと考えて行動しようと思っても、途中で身体が動かなくなったりするんだもん。

 身体の具合がいい時は、普通の人がやる方法で頑張りはじめたりするんだよ。それで計画を立てたりする。でも、結局天気が悪い日とかが途中で来て、身体が動かなくて、ああわたしはやっぱりこうなんだ、って気づいて鬱になる。それをずっと繰り返してたし繰り返してる。どうしてか、普通の方法論を自分にもできるって思っちゃうんだよ。具合がいい時は。

 でもそうじゃない方がいいのかもね。元気な時だって自分の体に従った方がいいんだろうな。「挫折」しないために。

 挫折してたんじゃなくて、もともと立ててた計画が自分の身体に合ってなかったんだと思う。小康状態だからこそできることを毎日やろうとしたって、無理なんだよな。よく考えなくても。

 人が言ってる「やり方」は、大抵わたしの身体には合わないってことを理解しとかないといけないなーと実感している低気圧の時期です。
 君も身体に気をつけて。

学校がしんどい君へ。5〜続 高速・低速モード

「低速モードの時は何もできない」っていうのも全然間違ってない。これが大前提だと思う。

 ただ、「好きなことしかできない」とか「好きなものしか食べられない」っていうのもあってる気がする。
 好きなことっていうか、よっぽど気が向いたこと、それをすることで今安心できるなあとか、やる気が湧かない中でもこれだけは楽しいかも、みたいなことしかできないんだ。

 それは多くの場合建設的じゃない。
 そもそも低速モードのわたしは、建設的なことをしようとか頑張ろうみたいな傾向の動きが大嫌いだ。体調悪くてそれどころじゃないんですけどってなる。
「体調悪くてもこれだったらまあできる」の中で、「じゃあこれやるか」ってなるものをやって、それも飽きることがほとんどだけど、何かにハマることもある。つい一昨日ぐらいまではひたすら色んな人の「Detroit: Become Human」の実況見比べるのにハマってた。

 建設的じゃないって言っても、ハマったことからは何だかんだ色んなものを得たと思う。(あとでメモっとこ。レポートみたいになるかも)
 体調が悪くなきゃ、あれだけ時間のかかる動画を視聴することもなかったと思うし。
 低速モードは充電モードだし、高速モードの時にはやらないことができる機会だということにしよう。っていうかその通りだしね。
 自分の幅が広がる機会だ。

 世の中的には、いつでも建設的に、いつでも頑張って--つまりいつも高速モードでいるのがいい感じがして、そこがやっぱり嫌だし不安になるんだけど……無茶言うなって感じだしな。

 これからやってくる梅雨で、低速モード中の生き方を模索してみるつもり。
 少なくとも高速モードと同じパフォーマンスを出せるわけがないし、出そうとしたら自分で自分を追い込んでしまうからダメだし。あまり無理もしたくないし。

 ってか正直言うと、働くってなった時にどうなるかが心配なんだよね。温かい曇りの日はいつも具合が悪いんですけどって話だからさ。
 まあ今から心配してもしょうがないんだけど。
 将来のことは何もわからないもの。

 とりあえず、今はなんだかんだ生きてるし、そういう体調不良の時に心置きなく体調不良ができてるから、良いぞ~って感じ。
 そう、そういう、他の人にはわかりにくい体調不良に陥ってる時に一番怖いのは他人の目だからね。

 身体感覚って人それぞれだから、感覚過敏でもない人からしたら、わたしの頭痛ですらない気象病って意味がわからないと思うの。
(だからって「分かってくれよ」と言うのを諦めるのはよくない、それは自分を大切にしてないんじゃない? って、最近学んだんだけど)

 それでもね。
 意味がわからないかもしれないけど、わたしの不調は確かに存在するんだよね。
 だけどそれを認めてもらえなかったら……高校の時そうだったし、それでむちゃくちゃ病んだし……みたいな不安がさ。

 それでも生きていく方法として、自分の音楽活動や諸々の活動を頑張って、ゆくゆくはそれで生活したいと思ってたりもするけど、それだって低速モードの時は「頑張れない」わけだからさ。
 好きなことだって頑張ることはできなくなる(単にやることはできても)のが低速モードだから、余計に焦る。

 だけど低速モードになることは避けられないし、低速モードの時に頑張っても、ぶっちゃけあんまり意味はないし、最悪、活動自体に嫌気が差してしまうかもしれないわけで。それは絶対避けたい。

 人に理解され難い、しかも現代社会じゃ問題視されやすい低速モードがある身として、どうやって生きて行ったらいいんだろ、みたいなことは、わたしだって模索中なんだ。

 だから、わたしの「大丈夫だよ!」はあんまり当てにならないかも知れないけど……

 でもとりあえず、ここにも一人そういう人がいるよ、健康優良社会不適合者がいるよ、ってことだけは覚えて帰ってください。

 そうそう、「健康優良社会不適合者」っていう名乗り方はね。

 わたしがそうして気象で具合が悪くなるのも、身体の感覚が過敏で、自然の、自分の周囲の状況をビンビンに感じるセンサーがあるからってことで、つまり、物凄く健康的な不調なんだよ、って自分で思ってるからなんだ。

 便宜上「気圧病」とかって言ってるけど、全然病気じゃないし、対症療法はめっちゃ欲しいけど、「治療して」「自分のこの身体から消す」ことはしたくないし、それは自分の身体を否定することだと感じる。

「この社会で生きていくには治療しなければならない」っていうのは、「わたしがわたしのままで生きていってはいけない」ことだと感じる。

 だから治したくないんだ。

 まあそもそも治しようがないんだけど。

 そんなわけで、不安ではあるけど、この身体と生きていきたいと思う。
 これからどうなるんだろうね。

学校がしんどい君へ。4 〜気圧病と高速・低速モード〜

 宵部帝国では、1010hPa以下の気圧を法律で禁じている。

 というのはもちろん冗談だけど(笑)、気圧や湿度がそのまんま身体に影響してしまってまともに動けなくなるのです。
 わたしはここ数日、自堕落な(と自分でつい思ってしまう)(自分を責めるのも焦るのもやめたいね)生活しかできませんでした。
 しんどい、ひたすらにしんどかったです。

 気圧からくる頭痛なら頭痛薬でなんとかなるけど(効かない時もあるけど……)、低気圧の不調って、必ずしも痛みって形で出てくるとは限らないんだよね。
 身体の重さ(押さえつけられて重力が3倍になった感じ)、吐き気、身体が内側から押されてる感じや血行不良による気持ち悪さとかは、ギリギリ痛みにはなってないけどともすれば痛みそうな苦しさとずっと隣り合わせで、それは防ぐ方法がなかったりとか(酔い止めが効くって聞いたことあるから試してみようかな)。
 あと、毎日のように天気が悪いと毎日のように不調だから、毎日のように・効果が切れるたびに薬を飲む自分が怖くなったりね。めっちゃ薬飲んでるじゃん……鎮痛剤って常備薬じゃないのに……こわ……みたいな。

 今思い返すと、よくわからない体調不良は昔からあったなって。頭痛手前(でも頭痛になるとは限らない)の脳酸欠とか、よくわからん身体の痛みとか。
 大人になってくにつれて、求められるパフォーマンスがどんどん高くなって、自分でもすごく色んなことに気づいて気を遣えるようになってしまって、でもそれをするには身体がついていかなくて、その体調不良が問題になるシーンが多くなっていったんだろうなって思う。
 それが問題として噴出したのが、わたしの場合は中学3年生の時くらいから。
 脳酸欠の状態で勉強したり、ものを考えたりするのってかなりしんどいんだよね。頭の中心にずっと鉄柱があるみたいな感じでさ。

 そんな風に、いい天気の時と悪い天気の時でコンディションがまるで違うから、自分で自分に戸惑う。
 いい天気の時は好奇心と意欲に満ち溢れてるんだけど、
 悪い天気の時は何もかもがうるさく感じるし頑張れない。
 これを高速モードと低速モードって呼んでる。

 いつでも高速モードでいられたらいいのにって思う。
 いつだって好きに動けて、何でも面白くて、やってみたいことがいっぱいあって、実際やってみて嬉しくて楽しくて、あー楽しかったって眠りたい。
 だから1010hPa以下は違法なの。

 でもさ、いくら宵部帝国で禁じたところで、天気ってそういうものじゃないからね(笑)。
(あ、いま「禁じられた天気~低気圧タヒねソング~」っていうタイトルを思いついた。「Forbidden Weather」でもいいな。程よくダサくて。ラップかポエトリーリーディングにしようかな。じゃすとあいでぃあ。)
 高速モードのわたしと低速モードのわたし、両方いてわたしなの。

 だからせめて、低速モードでも自分を責めすぎずに過ごしたい、って思うんだけど。
 でも、低速モードの時の自己嫌悪や不安や焦燥感は、ある種それも悪い天気が作り出した「症状」である気がする。だから、低速モードでも前向きに! とかはそもそも無理があるのかも。
 しんどいけど、低速モードの時の気分とはきっと付き合っていくしかないんだろうなって。

 今すでに、「天気が悪いんだから体調が優れないのはある意味当然じゃん」ぐらいに開き直れたから、次はメンタル面だね。
「天気が悪いんだからポジティブになれなくて当然じゃん」な心構えで行きたい。

 ネガティブで、不安で、自己嫌悪で、何もする気になれない自分を否定せずに付き合うって、すごく難しい。
 それはやっぱり、「ずっと動き続けなきゃ」みたいな観念を、人生の中でたくさん”社会”から吸収してきたからなんだろうな。

 動けなくても大丈夫。不安でも大丈夫。そんな自分を責めなくても、焦らなくても大丈夫。
 今はのんびりしよう。天気はずっと悪いわけじゃないんだから。
 確かに動けるもんなら動きたいけど、天気が悪いってことは、今はそのタイミングじゃないってことなんじゃない? 空がそう教えてくれてるんだよ。
 ってことにしていきたい。

「ってことにする」はすごく大事なことだと思うよ。
 色んな情報が、色んな正義が、色んな「真実」が溢れている世界で、
 何を自分にとっての真実にするかは、自分が自分として生き残るために物凄く大事で、必要なことだと思う。

 これから梅雨になって、悪い天気ばっかりになりそうだからさ。
 みんなも体調とメンタルにいい感じに寄り添って、自分に優しく行こうね。

 いつだって自分には優しくすべきなんだけどね!笑

学校がしんどい君へ。3 〜言語化のススメ〜

 どんなプラットフォームでもいいので、自分の思っていることを書く、定期的に書く、というのは、一つお勧めしたいライフハックです。わたしももっと早く知っておけば良かったなって思っています。

 自分の感じたことを、確かに感じていた、と残すんです。

 自分の外の世界の誰に否定されたって、ここにだけは、自分の考えたこと感じたことが確かに書いてある。
 その事実は、すごく支えになってくれます。

 わたし自身、こうしてブログの形で自分の思ったことを書くようになって、感情や悩みの吐き出し口が増えてとても落ち着きました。

 もちろん親しい人に相談することも良いのですが、いつでもどんなことでも近しい人が理解してくれるとは、残念ながら、限りません。
 それに、そもそも人に相談するには、ある程度気持ちを落ち着けたり頭の中を整理したりが必要になる時もあります。
 そんな時に、自分の頭の中で抱えすぎて苦しまないように、紙だったり文書作成ソフトだったりにぶつける、っていう手も知っているとベリーグッドというわけです。

 とはいえ、自分の思ったことをそのまま書くなんて経験、実はなかなか無いかもしれません。
 学校の作文は、自由に書くように言われますが、それでも透明な制限があったりなかったりして結局自由には書けないってこともザラです。

 だから、思ったことを率直に書く方法を知るために、色んな人のブログを読んでみるのもアリです。ブログが本になったやつも面白いです。

 世の中にはいろんな文章があります。ギャグセンスが高かったり、毒舌だったり、優しかったり、論理的だったり。

 ブログは日記をウェブ上に公開したもの、つまり日記なので、型がありません。お手本もありません。
 だから、その人の人柄や美意識や人生がめちゃくちゃ染みた文章になっています。だからとても面白いし、ものによっては、読んでいる間その人の気配に包まれて安心できます。

 何でも自分のためだけに書くノートを作ってみてください。

 ブログを開設するのもありです。最近はnoteが有名みたいですね。はてなブログ・amebaも手軽に利用できます。

 自分の「ほんとはね」を吐き出せる、自分だけの居場所があると、「自分の感じたことを他人にかき消される」ってことに抵抗できるようになります。

 自分の感じたことを無かったことにされる、自分自身無かったことにしてしまう、否定してしまう、そんな悲しいことはないから。

 あなたの感じたことが「確かにあった」と形になれるように、ほんとうの、あなただけの気持ちの居場所を作ってあげてください。

学校がしんどい君へ。2 〜分解・分析してみる〜

 学校のしんどさにはいろいろあります。いろいろありすぎて、複雑に絡まりすぎて、これが辛い!なんて明言できるケースの方が少ないと思います。
 そのいろいろを、わかる範囲で全然いいので書き出して、ちょっとでも整理してみると、何がしかの役に立つかもしれません。

 わたしが経験したことあるものを書き出してみると、

  • 通学が疲れる。
  • 教室内の人間関係。ちょっとでもシクると割とお手軽に人権がなくなる。
  • 先生がクソ。しかも周りがそれに気づかないor気づいててもスルーできてしまうタイプの人ばかり。理解者がいない。
  • 感覚が人より過敏だったり、苦手な刺激があったりして周りと同じことができない。あるいは、できるけどすごくしんどい。(でも周りは自分と同じくらいしんどいのに頑張ってるんだと思ってしまったり)
  • 勉強して(=努力して)、何かを掴み取る!というイデオロギーがしんどい。一身の事情で努力が満足にできない人間はどうしたらいいっすか……
  • 普通に週休2日or1日(土曜授業があるのが基本の学校もある)に身体がついていかない。ってかこれはみんなそうじゃねえか? みんな我慢してるだろ。何とかならないんすかねぇ
  • シンプルに趣味や感覚が合う人がいない。学校に通っている間は学校が生活の中心、どころかほとんどを占めると思うので、そこで気の合う人が見つからないと結構きつい。
  • ことあるごとにお説教で教師にとっての正しさを叩き込まれる。お前がそう思うならそうなんだろうお前の中ではな。
  • あと他に何があったっけかな。

(「学校」というものをボロクソに言っているようですが、もちろん学校にだって、素敵な思い出ができる場所としての機能や、システムとして良い面もたくさんあるでしょう、ただここはしんどさを言語化して整理するためにつらつら書き出してみています……!)

 さて、こうして書き出してみるとよくわかるのですが、「学校」というのも、結局一長一短のある教育システムのうちの一つでしかありません。
 だから、それが身体に合わない人がいるのも当然になってきます。

 というわけで、学校以外の選択肢も必要だ、できるだけはやく、早く色んな人が選択できるようになったらいいよな、と思っていて、オルタナティブ教育について調べ始めています。
 もちろん体調が良ければなのですが、教育関連の論文を読んで文筆する活動もしていこうかなと思ってます。

「学校がしんどいのは何もおかしいことじゃない」って言うのは、言わないよりは全然マシだけども、それだけじゃあんまり解決にはならないからね。
 その解決に、少しでもわたしの力も添えられればいいなと思っています。

 ぼちぼちやっていきます。

学校がしんどい君へ。1

 最初に言っておくと、学校がしんどいことは何も悪いことじゃない。
 誰にだって得意な刺激と苦手な刺激があるんだから、「学校」がその苦手な刺激に当てはまるなんて普通にあることだ。
 君は何も悪くないし、何もおかしくないし、ひとりじゃない。
 まずはそれだけ覚えていてください。

 学校がしんどい君の、少しでも心休まる、心温まるよりどころになりたい。
 そう思って書き始めます。

 わたしは小学校4年生の時から、断続的に不登校でした。
 小4のときは確か、2月~3月はきっぱり休んでたかもしれないな。小5の時は騙し騙し行って、小6の9月から全く行かなくなりました。 当然親とは揉めに揉めましたが、わたしはあらゆる手を使って抵抗し、認めさせました。
 自分の心を守るために絶対に必要だと思ったんです。
 今思うと、あの時のわたしは子どもながら解離していたし無気力だったしゴリゴリに希死念慮もありました。それ以上に生きなきゃもったいないとか夢を叶えたいとかって気持ちがあったから、死のうと考えたことはなかったけれど、楽になりたいとか消えたいとかどこか遠くに行ってしまいたいとか眠ったまま目が覚めなければいいのにとかはずっとずっと思っていました。

 その後も、中学高校は楽しいことも多かったんですけど、感覚過敏で体調を崩しやすいわたしには忙しすぎて大変で、結構苦しんでいました。
 やっぱり不定愁訴(原因と症状がはっきりしない体調不良)で休むことがちらほらあり、その件についてまた親と揉めて、精神科に通院したこともあります。
 でも今思えば、あれはちょっと違ったかな……感覚過敏で疲れやすく、体調を崩しやすいのを、うつ病という風に診断されたのだと思っています。つまり、正直言ってわたしはあれは誤診だったと思ってます。

 そんなこんなで高校生活をしていて、3年になった時、受験のストレスでひどいパニック状態になってしまって。
 それが決定打になって、生き方を変えて、ここまでやってきました。

 今は東京藝術大学で、えっちらおっちら大学生をやっています。

 生き方を変えたって言うのは、自分を責めるのをまずやめました。

 自分の体調不良や情緒不安定を責めるのをやめました。いや、でもやっぱり自分自身動きたいのに身体が不調を訴えると、まず自分で自分にイライラするんですけど。でも、「こんなんじゃやっていけないのに!」って責めるのをやめました。

 変わろうとするのもやめました。とにかく、自分を否定するのをやめました。

 何をするにしても、まず、元気にならないといけないから。

 それで少しぐらい嫌なやつになったって、心からごめんなさいが言えるなら、きっと大丈夫なんです。

 わたしは感覚過敏で、疲れやすくて、体調も不安定で、頑張ることができません。
 人並みの努力をすることがなかなか難しいし、それを自分に期待していると、思うように動かない自分の体に涙が出てきてしまうので、そういう「人並み」の物差しで自分を測ることはしません。

 わたしが普通に生きていこうと思ったら、自分の身体の変化を管理して、神経質に生活して、それでも不調だったら痛み止めや酔い止めを飲んで、少しぐらいは体調不良を押してやるべきことをやって……ってなると思うんですけど、
 いや、正直絶対嫌ですね。
 嫌だからやりません。
 ……そんなの、生きた心地しないじゃないですか。
(でも具合が悪い時期が続くとつい、自分で進んで、そういう生活をしようとしてしまうので、反省です。
 感覚過敏で自分の身体の変化にも過敏なおかげで、微妙な不調は自分である程度ケアできるのですが、……それは自分のために、自分の苦痛を緩和させるためにケアするのであって、無理やり身体を動かすためじゃないはずなのに)

 頑張らなきゃ生きていけないとか、ちょっとぐらい我慢しないと生きていけないとか、そういうのは全部ふざけた幻想だと思っているし、そう信じたいです。

 とりあえずでも、今は、倒れたい時に倒れられるし、かなり好きなことを好きなときにやれているので、大丈夫になりました。

 将来の不安はあるけど……ある意味、そんなの誰でも同じだし。
 いや、ちょっと違うけどさ、やっぱり。すぐに倒れる、しかもそれをあんまり理解してもらえない身体だから、周りとちょっと条件は違うけど……

 でもとりあえず今は大丈夫です。
 だから、あんまり信じられないかもしれないけど、説得力そんなにないかもしれないけど、あなたも大丈夫だよ、って言います。心いっぱいの祈りも込めて。
 わたしがあなたを肯定する場になります。

 どうか諦めないで。
 あなたは間違いなく、必要とされて、この世界に必要だから生まれてきたんだよ。
 それはもちろん目に見える誰かの役に立つためとかじゃなくて、あなたがあなたの望むようにすること、望むように生きることが、必ずこの世界にとって必要だから生まれてきたから、どうか、どうかあなたを、あなた自身を諦めないで。


 あなたは、あなたらしく生きることを応援されて当然なんです。本当は。
 だから、そうしない奴にわたしは心から怒ります。

 わたしの言葉は、直接には役に立たないかもしれません。(っていうか、言葉って、他人の言葉って、しかもネット上の言葉なんてそういうものだしな)

 でも、この言葉をこうしてネット上に放つことで、あなたが何も間違っていないことを保証することは、少なくともできます。

 あなたは決して一人じゃない。

 まだ出会えていないかもしれないけれど、あなたの味方になってくれる人は絶対にいる。
 この記事がその証明です。

 だからもう少しだけ、全てを諦めるのは先延ばしにしませんか。