きょうの断片。6月13日、2020年

「レコーディングの時、マイクに向かって歌う」という経験がすごく面白い気がした。それは一体誰に向かって歌っているんだろう? 現在でもあり未来でもある聴衆のため?
 吹き込んだ自分の声は、未来の誰かに出会うことになる。
「録音された声は過去のものである」、という言説はよく聞くけれど、それを吹き込む側に立って考えたことはなかったので面白そうだ。

 打ち込みの、オルゴールのような、誰が奏でるわけではない自分だけの音に耳を傾ける宝物みたいな感覚が好きだったのを思い出した。
 ボカロを聞き始めた小学4年生のあたりから。
 そんな音楽はいつも私に寄り添ってくれた。わたしのために存在し、わたしによって奏でられ始め、わたしのためだけに語りかけてくれた、ように感じていた。

 雨の水滴が乗り物の車窓を滑り落ちていく様を、涙が流れているようだと思って小さい頃から見ていたけれど、垂直方向に水滴が流れていくのを見る機会なんて他になかなかないな。

 わからないことは恥ずかしいことでも悪いことでもない。完全にわかる時なんてほとんど来ないんだから、分からないことにワクワクしようよ。
 わからないからって否定しなくていいし、「自分にはよくわからないから……」って遠ざからなくてもいい。

 多様性は弱さで、弱さを曝け出して協力し会えることが、理想的な深い関わり方、コミュニティのあり方だ、というような話を友達がしていた。
 とても素敵だと思う。
 わたしたちは何者か、どう生きていくか、社会についてどう思うか、みたいなことを、そんな信頼関係の中で話す場っていうのは、なかなかないし、あったとしても外側からは見えないことが多くて、難しいね、みたいなことを他の友達が言った。
 だからわたしは、そんなコミュニティを物語で描きたいと思った。

 新しい音楽や、面白そうなことに出会える「見本市」みたいな場所がもっとほしいねって話もした。
 例えば服を買う時がわかりやすいけれど、駅ビルの何階に行けば色んなお店が並んでいて、新しいものに出会える。その中からお気に入りのお店を探して、そのお店のオンラインショップで服を買ったりもする。「駅ビルの何階」にあたる場所が充実しないと、店側は新規の顧客に出会えないし、客側は新しい服に出会えない。だからそういう「見本市」って大事だよねって。
 友達が、ラジオは音楽にとって、そういう良き「見本市」になってたりするんだよって教えてくれて、とてもありがたかった。お勧めの番組も教えてもらった。ぜひチェックしてみよう。

 

きょうの活動と断片。6月12日、2020年

 朝起きて、家事をして、最低限はできあがっている新曲のMVを眺めて唸った。手を入れるべきか、入れないべきかと。
 MVはいつも色々と迷う。
 音楽以外の情報、例えば文章とか映像の切り替えを入れたら入れたで音楽が聴こえなくなる気もするし、かといって見るものがないと目が退屈するのかなあとか……
 自分にしっくりくるものを作って、皆さんに提供する、という哲学でやっているので、わたしがしっくりくるようにするけれども、今日は迷う日だった。

 お昼を食べてから、「学校がしんどい君へ。」を書いた。
 一度に二日分書いたので、明日の分というか、一回分のストックができた。
 2回分とも長文になった。

 お昼を食べて、オンライン授業を受けてから、「哀と傷」のセルフライナーノーツを書いた。
 近々pixivFANBOXの方にアップできると思う。

 ここ数日授業で学んだことから、つくづく考えるのだけど、この現代社会、メディアの使い方が上手い悪ほど恐ろしいものはないなって。
 もちろん、メディアをうまく使って人を幸せにすることもきっとできるんだろうから、わたしはそっち方面の追求をどんどんしていきたい。
 そういうのって勉強や分析でどうにかなるもんじゃないかもしれないし、逆に言えばメディアの使い方が上手かったものが後からそう研究されるもんなのかもしれないから、狙ってできるのかはわからないけど……でも楽しそうだし。
 今日始めた↓みたいなメディアで何ができるのかとか、考えてみたら楽しそう。

 夜20時から、YouTube Liveでライブ配信をした。

 前々から企画していたプロジェクト〈天蓋〉というもので、自分の音楽を流しながらだらだらと雑談をした。
 でも、マイクでパソコンに向かって話すのは、まだまだ慣れない経験すぎて感覚がわからない。
 なんだか初めて歌をレコーディングしたあたりの時のことを思い出した。
 あの時は、マイクに向かって歌う感覚なんて掴めるも何も何がその感覚なのかも分からなかったし、何より緊張して気が散ってしまったし、「え、わたしもっと上手いんだけど……(マイクに向かってじゃなくて空間に向かって歌って、それをボイスレコーダーで録った時のクオリティと全然違う)」とか。
 懐かしいな。
 配信者の皆さんは神だということが改めてわかった。わたしもいずれその中の人柱になって行けたらいいな……まじリスペクトだ。

「声」に対する研究の材料にもなるかもしれない経験だ。練度を上げていきたい。

 新曲をupしたのちに、歌ってみたもまたやりたいな。

きょうの活動。6月11日、2020年

 プロジェクト〈天蓋〉で使うインスト曲を3曲仕上げた。これで30曲ラジオに使えるストックがあることになる。結構たまった気がする。もちろん常時足して行きたいけども。

 また、Rainy Shelter Dwellersの続編にあたる新曲のMVを作った。最低限は完成させられたが、これ以上手を加えるか迷いどころ。
 曲の方は、かなり高クオリティに仕上がったと思う。あと3ヶ月ほどで21になるわたしの今の実力を出せたと思う。
 この曲を作っていた時の思い出を書くと、Rainy Shelter Dwellersの制作データを久々に見にいったら、ギターの音色の作り込み方が結構ちゃんとしてて背筋が伸びた。その時受けた刺激とある種の良いプレッシャーを生かして、今回の新曲もギターの音色にはちょっとこだわりました。
 こだわりポイントの色々ある、お気に入りの一曲がまたできました。

 実は午前中から昼過ぎにかけてずっと悲しい気持ちだった。将来への不安でいっぱいになっていた。
 でも、「『自分の身体の自然に任せればうまくいく』みたいなことを、成功法則とか心の健康法とか語る人みーんな言ってんな」ということに気がついて、「今自分なにやりたいかな」って自分に訊いてみたら作曲で、それでインストが仕上がった。
 この状態がいつまで続くかなんてわからないけど、今日はなんとかなったし、活動を進められてとてもよかった。

 授業で、カルチャー史を学ぶ機会が多く、それも悲しみの原因だったと思う(原因っていうか、それに刺激されて悲しみが膨らんだ)。
 バブル崩壊前はみんな明るい未来を描いていたんだみたいな話を聞くと、未来が明るい時代なんてわたし知らないんですけど、どうしてくれんすか、みたいな、憤りですら既になくて悲しくて絶望的な気持ちになる。
 これは対策しようがない気がする。どーしよー。
 そもそも少子高齢化で若者は数で負けているから、色々動いたり主張したりしていても中々成果が見えない。なのに声を上げたことについて叩かれるのは同じ。そうすると、やっぱ心折れそうになる。わたしは活動の中心にいるんじゃなくて応援する側だけど、そういう強い逆風を見てるとこっちもしんどくなってくる。だから、今中心にいる人たちがしんどくなっても、声を絶やさないようにはし続けないといけないし、わたしもその一員で在れたらいいなって思う。
 みたいな八方塞がりさを昨日母に電話でぶつけてしまったけど、母は「そうだね……今は確かにしんどいかもしれない。でも、上の数の多い世代が退く時がこれから来るから、それまで心折れないように、静かでもいいから細く長く続けていけたらいいね」って、とても素晴らしいことを言ってくれた。嬉しかったしほっとした。ありがとう。

 あと、これもまた昨日の話になってしまうけど自分の曲は自分でしか売りたくないって話もした。それはわたしの内臓だから、人の手から売って欲しくないということ。

 それは将来どうしよう、って話からで、それで押さえ込んでいた不安が開いちゃって今日のはじまりが鬱だったんだ。
 とりあえず、さっきも書いたように「自分の身体の自然に任せる」ということをやってみようと思う。
 参考資料は坂口恭平さんの「躁鬱大学」(noteで連載されていた。無料で読める。この分量と内容が無料で読める。素晴らしすぎる)。わたしは躁鬱人とは少し違うけれど(”自分”がありすぎるくらいあり、自己の一貫性があり、一人で楽しく過ごせるところなどが相違点。逆に言えば他はすごく共感できる)、「窮屈にならない過ごし方」というのはむちゃくちゃ、めちゃめちゃ、死ぬほど素晴らしい。ぜひ読んでほしい。後で「学校がしんどい君へ。」にも書くと思います。
 色んな人の、色んな生き方についての本を読んでいて、結局行き着くところは全部「身体の自然に任せろ」なんじゃね?と思ったので。色んな人が色んな、その人自身の言い方で、「自分の体の自然に任せよ」って言っていた気がしてならない。

 noteの「プロジェクト〈天蓋〉」も更新したかったし、「学校がしんどい君へ。」の続きも書きたかったが、それこそ身体の自然が「眠い」と言っているので今日は此処までにして寝ます。

 おやすみなさい。今日は結構充実してた。しあわせだー。

きょうの断片。6月10日、2020年

 ニュータウンには歴史がない?
 わたしはニュータウン育ちなので、色々考えた。その中で宮崎駿氏の「耳をすませば」ってすごく画期的っていうか、大きな役割を担ったのでは。

 ポピュリズムってネオリベっぽさを感じる。何もかもがブランディングのためのセールスピッチになっていく感じ……
 わたしはビジネス的な考え方自体には否定的ではなくて、美学とか理念とかとうまく噛み合ってればとてもいい効果を発揮できそうって思ってるんだけど、だから肝心なのは美学とか理念とかが口だけじゃないかってことで、ごにょごにょ……

 フロイト→ラカンの精神分析の話を聞くと、面白いんだけど、やっぱり自分は無意識というものに実感が持てないところはある。
 無意識は、ショックすぎて忘れている(忘却)と、そんなのダメだと思っている(抑圧)で、ざっくり言うとこの二つでできている気がするけど、わたし自身はその二つを回復して「無意識」から引き出すことができちゃったパターンなんだろうなって。だから実感が持てないのは無理もない。
 自分で自分を楽にしようとその辺はめっちゃがんばったからな。セルフセラピーしてたから。

 今はなんか、SFのイメージすら古ぼけた感じになったなあって。
 これから「新しいSF」ってでてきたりするのかなあ……

 Flying Lizardsに興味を持ち始めた。あとArt of Noiseを改めてもっと聴いてみようかなと思った。

 昔のテクノポップ、プラスチックやポリプロピレンというワードがキーワードになっていたのかなって思う機会があって、それってPerfumeもそうだった時期あるよなって思い出した。

 バッハのポリフォニー、死ぬほどおしゃべりでしかも話す内容が一言一言面白い人の話を聞いている気持ちになる。待って、今言ってたこと面白かったからちょっと味わう時間ちょうだいよ待って待って、みたいな。

 何かの素材をループして作る音楽とトートロジーには親和性があるから、そういう歌詞って面白いかもと思った。トートロジーな歌詞。あるいはエコーチェンバー現象な歌詞。

きょうの断片。6月9日、2020年

 女性が「やおい(二次創作BL)」を書くことについて、その向こうの心理や社会学について研究してみたいかもしれない、と思った。文学にはどんな哲学があるんだろうか。エクリチュール--書かれたもの--だけでなく、その文章を書くという行為に関する研究や分析の方法論はあるのだろうか。調べてみたい。

 その不便さやコミュニティ的な特徴から、社会運動とも相性が良さそうなZINEというメディアが、最近とても気になる。作ってみたいし配布してみたいけれど、あいにく配布の仕方がわからない……
 このサイトで連載している「学校がしんどい君へ。」の原稿が溜まったらZINEにしてみたい、なんて思いつきはあるが、やはり問題は配布方法だ。
 維持費以外の価格をつけずに通販(郵送)という形でいいんだろうか。

 他者の痛みを感じ取る時、やっぱり身体(性)が重要である、というような言説にも触れた。
 でも、その身体も、現代ではかなりサイボーグ化してきている。
 前に、声もまた人体の延長としての「道具」であり、本質的にサイボーグ的である・サイボーグ化する性質を持った人間が、初めて自分の身体で取り扱う延長装置=サイボーグ的身体の一部だという話を聞いたことがある。
 わたしは大学では、録音された音や声を使って作品を作ろうとしているので、「サイボーグ」は声に関するキーワードとして覚えておきたい。

 また、「見る」ことと「消費する」ことの密接な関係について、同じゼミの人たちの発表を聞いて考えた。
 では、「聞く」ことは、「消費する」ことへの対抗手段にはなるんだろうか。ならないんだろうか。なるとしたら、ならないとしたら、それはどのようにだろうか。

「初音ミク」は史上初の「(少女型)アンドロイドの声」だったので、人形愛のような欲望を人々に抱かせた、という文章を読んだ。
 人間に近づこうとする、けれど人間ではない存在への愛情。
 それが「声」という領域に現れたことは、とてつもなく画期的だったのだなと理解した。

 SNSでの情報発信(とくにタイムラインがあり、フロー型のもの)は、一時的な話題性や拡散には繋がりやすいが、それがその発信者や扱っている問題への長期的な支持につながりやすいとは言えない。
 とすると、やっぱりその人固有のページ(ポートフォリオorギャラリーになってくれるページやブログなど)やその問題専門サイトが必要になってくるんだろうなとふわっと思った。

 あと、「見てほしいという感情」「見られるという快楽」の話もゼミで出たけど、
 わたしは見てほしいわけじゃなくて、わたしがここにいることを知って、共感したら愛してほしい、つまり友が欲しいのだな、と再確認した。

 そう、友が欲しい。
 迷走することもあったけど、根本はそれだった。
 どうやったら友は増やせるんだろう。
「見せる」ことも、友を増やすためには必要だけど、たくさん見せる必要はないしそれでしんどくなるのも違うし、何より「見せる」ことだけじゃ不十分だ。それ以外にも重要なファクターは色々あるはず。
 とりあえず、今プロジェクト〈天蓋〉というものをやっているので、それが第一歩になったらいいな。

きょうの断片。6月8日、2020年

 授業で雅楽を聴いていて、雅楽は、宗教音楽は、神様がいる空間のための環境音楽なのでは? という発想が浮かんだ。演奏するか祈るか、どんな形にせよ、その場にいる人々は音楽を奏でたり聴いたりすることを通じて神と交流していたんだなと。
 音楽の起源が宗教に密接に関わっているのなら、この音楽との関わり方は、今でも受け継がれている本質的なものなんじゃないのかな? とか。

 詩のフィールドレコーディング、というか、どこで朗読されるか、詩の朗読の後ろに聞こえるノイズや環境音も込みで、「その場で朗読され、録音されるための詩」っていうのは面白いんじゃないかと思ってる。

 一方で、朗読って面白くて。
 わたしは、実は言葉って副次的な物なのかなとも思っている。言葉自体も大事ではあるんだけど、それをどんな表情で、文脈で、誰が言うのかによって意味やニュアンスなんてまったく変わるもの。
 それなのに朗読は、言葉が伝わるように読む。
 そもそも会話とは違うから。言葉が聞きやすいように読む。
 言葉のニュアンスを聞き手に委ねるため、っていうのも大きいと思う。
 他の何とも違う、声を使った言語活動の一つだなと思う。

 あと、絵を描いてみたいなって思うようになってきた。
 絵を描くというか、色を作って塗るっていう身体の動きがとても好きで、それをまたやりたいなあって。
 色彩構成や、四角い画面をどう構成するかも、今までは全然勝手がわからなくて、何がわからないのかすらもわからない領域だったけど、踏み入れてみたら面白いのかもって。
 授業と、SNSでたまたま見かけた、一つの企画に対して複数のデザイン案が紹介される本の情報のおかげだな。

社会と自己愛について。(まじめかっ)

 目の前にいる相手(これもダメな相手はダメなんだけど)と分かり合うことは、なんとかできても、「社会」を変えることなんてできるのかなあ、って最近ずっと考えている。

 もちろん、変えられるのか変えられないのかなんてとりあえず置いといて、声を出すことはとても大切なこと。それは当然だから、また別の話ね。

 ただ……

 自分の言葉で何か影響を与えられる相手だったらとっくに変わってるよな、って。
 何かの問題について、最初から言葉で気付いたり変われたりするひとは、そもそもその問題の根幹を成している層ではない、って話はよくあるじゃない。

 どんなに言葉を重ねても分かり合えない人というのはいて、そういう人に、諦めず手を替え品を替え言葉をかけ続けても、変わらないものは変わらないし、自分が消耗して削れていくだけなので、見切りをつけることは肝心だと思うのです、自分の心と身体のために。
 その人はきっと、「いま、わたしの伝えたいことに気づくタイミングじゃない」んだと思う、そういうときって。

 だからって、そんなこと言ったって許せないことがいっぱいある。看過できないことがある。許してはいけない気がすることがいっぱいあるから、ほんと、何も簡単なことなんてないんだけど。

 自分自身のことならさ、「それで、どうしたい? どうしよっか?」で決められるからシンプルなんだけど、社会の理不尽に怒ることには、まあ当たり前なんだけど最適解なんてない。

 話の通じない人とどうコミュニケーションしていったらいいんだろうね。
 相手がひとりとして存在してくれていたら、ちゃんと話を聞いて、コミュニケーションができる気がするけど、何かの全体の一部になろうとしている人だったら。
 そいつぁ結構きびしい。
 ”話の通じない人”って、そういう人なのかもしれないな。

 ああ、だからあの友達は「大衆から個人を切り離す」って言っていたのか。

 でも、大衆や全体の一部になりたいという気持ちは、きっと不安や傷から来ているのだろうとも、わたしは知っている。

 その不安や傷とはつまり、「自分には、基本的人権が、生まれながらに備わっている」と信じられないことだ。

(基本的人権=生まれながらに人間に備わっている権利のことなので、いまわたしは二重表現をしたんだけど、それぐらい「基本的人権」の意識が抜け落ちているのです……)

 自分は自分一人で十二分に存在していいのだと、好きに生きていい(ただし人の人権ももちろん尊重する必要がある)のだと、何に従わなくても、自分で決めていいのだと、そしてそれは当然の、生まれ落ちた以上誰もが持っている「当然」「所与」だと、どうしてか、わたしたちは忘れているんだか、忘れさせられている。

「権利」という言葉に対して、「権利が欲しいなら義務を果たしてから言え」なんて言葉が横行する世間だもの。

 ちがうんだってば〜!!! 基本的人権の話なんだってば〜〜〜〜生まれながらにして人間が持っている当然の権利の話、「生まれながらにして人間が持っている当然の」権利!!! 
 権利はだから、「獲得」するものじゃない。
 だから本来は代わりに差し出すものなんていらない(何かを得るためになら何かを差し出せねばならない論理で言うと)。
 権利を主張するとは、全部「取り戻す」ための行為なのだ。

 もう一度繰り返すけれど、権利はそもそも獲得するものじゃない。「何か対価を払ったから獲得できる」ものではない。
「そもそも全員が持っているもの」なのだ。
 それが権利だ。

 ということを、基本的人権意識を、自己肯定感を、自己愛を、繰り返し繰り返し伝えていくことが、長い目で見ると平和を作るんだろうなと思っているので、そういう活動をしていきたい。

 しかしそれはとっても長い目での話だし、予防注射みたいなことかもしれないから、何か問題が起きた時にそれに対処する方法は、また別に考えなきゃいけないことなんだけど。

 それが、ぜんぜん、糸口も何も見つからないなあって。
 日々探していきます。

ただの日記。2020/2/25

 ひまになったので、こっちの投稿もたまにはしてみようと思う。あんまり書くこと見つからないけど。

 大人ぶった文章、優等生ぶった文章、取り澄ました文章を書くことを自分に禁じてみたら、セルフツッコミ満載の厨二病文章になる気がする。わたしの文。だから根っからのオタク気質ってことなんだろうな……

 朝の12時(昼だ)ぐらいまでまともに活動できず、ずっとベッドの中にいた。だいたい腰が重いとか身体が冷たいとかしんどいとかが原因だ。しんどいという言葉は便利だ。具体的に広く一般に知られている身体症状の名前が自分の身体の状態に合わず、でも具合が悪いときに使える。

 わたしの感覚では身体が重い時は「しんどい」、刺激が暴力に感じる時は「つらい」、暴力に感じる刺激自体に対して「きつい」を使う。

身体が凝っているというか血流が滞っている感じで重痛い時も「きつい」かもしれない。痛いと言い切れないけど重たくて嫌な感じで動かすとちょっと気持ちいいとき。

 動けなくて床に臥せっていると、「何かの病気なの?」って誰かに聞かれそうな感じがする。別にたぶん病名はつかない。本気で診療所に相談したら何かしら名前をつけてくれるかもしれないし、それはそれで使ってもいいかなと思うけど、病名がつかなきゃ床に臥せっちゃいけないのか。熱出なきゃ休んじゃダメなのか。違うだろ本来は。休みたいときが休みどきなのだ本当は。

 いま、世間じゃ「”風邪なのに、熱があるのに仕事に行くのはバイオテロ、迷惑” っていう風潮にしていかなきゃダメだよね。風邪になったら休むべき」って言説が人気を集めている。でももう一声。休みたい体調、休みたい気持ちなのに動くのって迷惑なのでは。風邪になったら休むべき、以上に、休みたかったら休むべきなのだ。

 ふう。でも昼間からは買い物に行ったり、CD作ったり、買い物したり、ご飯食べたり、洗い物したり、いろいろ働いた。だから結局今日もたくさん働いたなあっていい気持ちだ。まだ今日は残っているので、これから何をしようかな。時間があるっていいね。

 たぶん自分のために働いているから、「疲れたなあ」じゃなくて「いっぱい働いたなあ(満足感)」なんだろうな。この気持ち大事にしていきたい。

 CDは3/10から順次配送。ここ→https://shobuwi.theshop.jp/items/26617049から予約できる。

 自分で言うのもなんだけどすげーよかった。今日通して聴いたけど、グッときた。めっちゃエネルギッシュだった。わたしやるじゃんと思った。お腹の方にグッときた。

 みんなも聴いてお腹グッてなろう。

 よろしくお願いします。

さびしさ

‪人間の奥の奥の奥にはさびしさしかないのかもしれない、それを見ないように普段はあかるいふりをしているのかもしれない、かと言ってすべてふりとは言い切れないし実際人間はあかるい、けれど奥底にはさびしさしか無い、だからほかのだれかがひつようだ、それにそのさびしさに触れてまたひとつ自分に優しくなるのだ‬

やりたいことはたくさんあるのに集中力には限りがあるのが世知辛いけふこのごろ

 やりたいことがたくさんあるのは幸せなことだ。
 ……大変幸せなことなんだけれども、身体と同じように頭とか、クリエイティヴな部分というのは使えば使うだけ疲れてしまう。1日に動ける量に限界があって、嬉しいんだけれどもそういう意味でしんどいわけだ。この、創造労働をするための持久力は体力じゃなくて何って呼べばいいんだろうね。便宜的にタイトルで集中力と呼んだけれど、そういうことだ。

 小説を書きたいし、CDも作りたいし、視覚詩もやりたいし、販売もしたい。あばばばば。
どこから手をつけていいやらだし、一つのことに集中して、息してる?みたいな効率でガシガシやるのが得意な身としては、いろいろやりたいことが並列している状態って頭が整理できなくて「わー! 何からやろう!?!? わー!!!」ってなってしまうんだな。
一旦整理の時間を入れたほうが後々いい気もするな。

 というただの独白ですが、若干次にやることの予告にもなってるといいなって感じ。

 そう、CD作るつもりです。
 3月頭に出せたらいいな。