わたしと嫉妬とわたしの話。

 あんまり具体的なことを書くと身バレ的なことが起こる気がするので、抽象的なことしか書けないんですけど、わたしと嫉妬の歴史を書いてみますね。

 と言っても、わたしは何というか本当に色々恵まれていて、人に嫉妬したという記憶がぱっと思いつく限りでは2回くらいしかありません。

 あ、でも、子どもの頃に、子どもなのに有名になっている子に対しては幼心に嫉妬心を抱いていたのは確かです。「わたしだってもっとできるのに」ってね。
 それはまあ、確かにその通りだったと思います。わたしはもっと幼い時から良いところをもっともっと伸ばしてよかった。
 人の機嫌を気にしてキョロっている場合ではなかった。

 でも、それはトラウマティックな恐怖体験のせいだし、それがわたしの身に降りかかったことは、多分意味があったことだったのです。
 少なくともその恐怖やもだもだが無ければ、わたしは今のような凄みのある表現にはたどり着けていないと思います。

 若くして成功することだけが良いことではありません。
「成功」するということは、ひょっとしたら、一人で考える時間が少なくなってしまうということでもあるでしょうから。

 だって、成功したら周りに人がいっぱい来るでしょ。
 自分もまだ考えながら、時に揺らぎながら、手探りで活動していっているのに。
 周りの人が色々言ってくるわけで、その色々言ってこられることの一つ一つが自分にとって大切なものなのか、害をなすものなのか、とか、まだよく分からないうちから、つまり自分のことがよく分かっていないうちから、大勢の人の声や視線に揉まれるのも、それはそれで大変そうだなって思うのです。
 成功する前に迷走するのも、成功してから迷走するのも、どっちのパターンもあるよなって。
 だからどっちがより良いとか、どっちが勝ちとか無いなって、今は思えます。

 わたしは今の、
 色々経てきた、
 自分のことがよくわかっているし、
 わからない部分があることも受け入れられるし、
 わからない部分のせいで迷ったらその部分を「わかる」にしていけるし、
 自分のことを人に伝えられる、
 この自分が好きです。
 誇りに思っています。

 だから今は、嫉妬ってありません。
「あ、あの人のやってることいいなー(自分もいつかやろう)」とは思うけど、「あの人みたいにわたしもなりたいのに……!」とか、「わたしのほうがすごいのに……!」とかはなりません。
 人と比べて焦ることもない。

 あの人みたいにならなくていいし、なれなくていいし、わたしにはわたしの活動がある、って分かってるから。

 でも、昔はまだまだ自分の魅力を信じきれなくて。
 自分には何が合って、
 何が無いのか(そして無いことは悪いことではない)、
 自分が持っているものを何もわかっていなかったから、
 自分に似ていて、でも自分より人気な人が妬ましかったし、「わたしはあの人みたいになれない!!!」って絶望しました。

 あとね、自分が本当は「それ」じゃないのに、頑張ってなろうとしているものに、自分よりずっとずっとなっている人にもムカついたり「抜かされちゃう!」って思ったりしたな。

 でも本当は、それ、自分じゃなくて、「それ」になった方が人気になれる、受け入れてもらえる、って思うから、頑張って自分じゃ無いものになろうとしてた、だから当然抜かされるしそのことで嫌な気分になる(だって努力が実らないってことだから)っていうカラクリでした。

 具体的に言うと、頭が良くて、言うことがしっかりしていて、清楚で聡明な感じの優等生ですね。
 わたしはどうしてもそこに変人パウダーを振りかけてしまう自分が嫌だったんですよ。
 だってなんか、オタクっぽいし、美しくないなって。
 でも、喋りたいことはめちゃくちゃ早口で喋っちゃうし、わきまえられないし、喋りすぎちゃうし。
 たぶん、浮くし。

 ……いや、よくよく振り返ってみると、わたしが変人でいられるって、
 それだけ夢中になっていてかつリラックスできる場に身を置いているってことなので、
 むしろわたしにとってとても好ましい状態だったわけなんですけど。

 でもわたしは、その変人なところが受け入れられない(と感じた/察知した)場では、周りから浮かないように「頭が良くて、言うことがしっかりしていて、清楚で聡明な感じの優等生」を演じることで周囲に溶け込もうとしてきたわけです。

 だから、自分とペルソナが被りそうな人を見ると「抜かされる!」「この子に注目を全部取られる!」って焦り始める、ということが起きてました。

 だから思うのは、嫉妬って、

「(あの人じゃなくて)わたしを見てよ!」

 っていう自分の内側からの叫びなんだと思うんだけど、
 これって自分の本音(魂)が自分に向かって言ってるよねって。

「もっとわたしを理解してよ!」って。

「そんな他人のことばっか羨んでないでさあ! あんた(=わたし)にだって他の誰にもない、人が羨むようなものがこんなにあるのに!!!」
 ってね。

 だから、自分への不理解からくる症状なんじゃないかなーって今は思ってます。

 だからわたしも、何か脇が甘くて、嫉妬みたいな気持ちが湧いたら、
「わたしは何かを我慢しているのでは?」
「何か自分に制限をつけていて、自分の欲求を見ないフリしているのでは?」
「だから好きにやってるあの人に腹が立つのでは?」
「その制限とはなんだろう?」
「その制限は、何かの傷から来ているのでは?」
 ってまた謎解きをするチャンスと思おうと思います。

(「謎解き」とはなんぞや? という方は是非こちらを読んでみてね↓)

 今回はここまで。

 YouTubeだったらご視聴ありがとうございましたって言うところだと思うんだけど、ブログだとなんて締めたらいいのかな?
「最後まで読んでいただいて〜」だと重すぎる感じがしてさ〜。

 あ。

 ご読了ありがとうございました!
(う〜ん、やっぱ日本語おかしいかな?)

 調べたら、「ご清覧ありがとうございました」が使われるみたいです。
 いいかも。
 どんなアホなこと書いてても、この言葉で締めるだけで頭良さそうになるし笑

 はい。

 こんどこそ以上です。
 ご清覧ありがとうございました!

 宵部

 

セルフケア(セルフペアレンティング)について。

↑この記事の最後の方で少し触れた「セルフケア」「セルフペアレンティング」について書きます。

 宵部式セラピー法のコーナーです!!! ドンドンパフパフ!!!!
(宵部式セラピー法ってなんか急に胡散臭くなったな)

「セルフケア」とは何かというと、つまり「親に満たしてもらえなかったものを自分で満たす」「自分で自分を満たす」ことです。

 まず大前提のお話。

 この世に、完全に子どもを満たしてくれて完全な育児をしてくれる親は存在しません。

「実家が太い」という言葉があるように、言葉の通じなさや目に見える形での子どもの扱いの悪さなどには差があるとは思います。ここには親の人間力が出るわけです。

 ただ、どんな親の元に生まれても、絶対に親との関係の中での傷つきや欲求不満は生まれます。

 なぜなら、親はこの世で一番最初に出会う、縁深い他人だからです。

 そして他人とは、自分の思い通りに動いてはくれない存在だからです。

「実家が太」くて親との関係が良好で悩んでいないように見える人でも、程度の大小はあれ、いつかはそのことにぶち当たるときは来ます。

 それこそが人生の黒幕だと思います。
 Eveさんの曲「ドラマツルギー」の歌詞に出てくる「黒幕」って、わたしは親(との関係の中で生まれたトラウマ)のことだって思ってるんですけどそれは脱線なので今はいいや。

 だから、その欲求不満の穴を自分で埋めるのです。
 あるいは、その傷を自分で看てあげるのです。
 それがセルフケアです。

 これは、「他の人が埋めてくれないから自分で埋める」みたいな、つまり寂しく一人になる、ということではありません。

 そもそも、そこを他人に埋めてもらおうとすると、とんでもないことになります。

 恋愛で言うと「重い」です。

 だって相手に自分の理想の親になってもらおうとしてしまうわけだから。

 結果として、人間関係が拗れます。

 それに、「重い」と感じる人だけでなく、相手の充足をコントロールできる存在になってしまうことで、自分が主君になったような心地になり、暴走し始める人間もいます。
(大抵そういう人は、「自分は他人より優れている(べき)」と思っている人です)

 そういう人に養分を与えてしまいます。

 ということで、セルフケアやりましょう。

 セルフケアのいいところは、自分を肯定してくれる人に頼らずに(もちろん悩みを人に話してはいけないということではありません。ただ、解決に他人の共感を必要としなくなるということです)、自分の悩みを解決に導くことができるようになっていくだけでなく、その悩みの解決をしていくうちに、自分が人間的に成長できるところです。

 ようするに、悩みから得られる経験値(人間としての・人生の)が跳ね上がるということです。
 人間としてのレベルが上がりやすくなります。

 人間としてのレベルが上がるとどうなるかは……あの……わたしがこれからどうなるかを見ててください!笑

 い、今は何者でもないかもしれないけど、絶対何かになるんで!

 ということで早速方法を書いていきます。

0 悩みが発生する。

 ここからセルフケアスタートです。
 あ、言い忘れましたがわたしがいつもやっている方法を書くので、人によっては合わないかもしれません。
 そういう方は、「自分で自分を満たす」系の文献を読んでみると、自分に合ったやり方に出会えるかもしれません。
 わたしは色々本を読み漁って今から書く方法に落ち着きました。

1 悩みを分析する

「分析」というと堅っ苦しいですが、つまり「わたしはこれの何を悩んでるんだ?」と自分の中を探します。
 このとき、頭で考えるのではなく、自分の感覚がしっくりくるものを掴むことがポイントです。

Point! これは「いつ」の問題なのか?

 まずここで最初にぶち当たるトラップがあります。
 ここにまた「親」が関係してくることが多いんですが、親じゃないこともあります。

 人間は、過去に受けた傷を想起させてくるような出来事が起こると、そこに過剰に反応するようにできています。
 だから、本当は今は問題ではないかもしれないことを、過去の傷に似ているからという理由で悩んでしまう、という現象が、わりとよく起きます。

 たとえばわたしは人の不機嫌や怒りが死ぬほど怖いのですが、それは幼い頃から我が家が定期的に父親の不機嫌によってヤバい感じになるという経験を繰り返してきたからです。
 でも、小さな子どもの頃はともかく、今となっては、不機嫌な人が同じ空間に存在しているからといって、死んだりしないことは明白です。

 このように、これは「昔の傷の思い出し」なのではないか、そしてそれはいつの傷なのか、を整理しておくことが、問題解決の早道です。

「なのではないか」というより、悩みの本質は「昔の傷の思い出し」です。

 昔に傷を受けたから、もう傷つかないように、生きるために身につけてしまう癖というのが、誰にでもあります。
 アダルトチルドレンの分類などは、その癖の分類のように、わたしには思えます。

 そして、その癖のせいで、似たような悩みをぐるぐる悩んでいる、ということが人生には起きがちで、
 そしてそういった悩みは、根本の傷を看てあげないと、一つを解決してもまた似たようなことがすぐ起きる、ということになりがちです。

 というわけで、昔の傷、その悩みの原点に立ち返ってみましょう。

2 自分の感情を許す

 ここで、悩みの根本がわかったら、それは傷なので、
 過去に受けた苦痛や悲しみがそこには眠っています。

 この苦痛や悲しみを、思いっきり自分自身に感じさせてあげることが必要です。

 なぜかというと、「それは自分のせいだから」「これぐらい大したことない」などで、感情を抑圧していることがほとんどだからです。

 その抑圧は、苦しみの大きさによって生み出されているわけですが。
 心の防衛反応というやつです。

 苦しみの理由(原因)を自分に帰することで、この苦しみはコントロールできるものだと思ったり、
 苦しみ自体を自分自身で軽視したりします。
 そういうトラウマティックな経験自体の記憶がやけに断片的なのも、防衛反応です。

 そしてその防衛反応から来る傷の自己責任化や軽視が、他人の言葉によって強化されてしまい、さらに悲しんだり怒ったり叫んだりできなくなる、ということも、生きていると積み重なります。

 でも。

 心に傷を負わせられた当初は思えなかった、「自分のせいではない」「ものすごく大したことだ」「自分は怒っていい、悲しんでいい、叫んでいい、何をしてもいい」と自分に言ってあげながら、思い切り、泣いたり暴れたり叫んだりさせてあげてください。

 他人が許さなくても、自分で許してください。

 この時、同情や共感は、自分自身以外には一雫も注がなくていいです。

 思い切り暴れてください。

 暴れるのが癖になっている人は、泣いてみてください。

 人を糾弾しなくても、あなたには泣く権利が死ぬほどあります。

2.5 伝える

 こうして解放できた感情を、あなたが一番伝えたいと思う人に、思い切って伝えてください。

 自分一人で勇気が出なければ、親しい人や専門家(カウンセラー、セラピスト、お医者さん)の助けを借りながらで全く構いません。

 親や兄弟や昔親しかった人などへの恨みなら、思いっきり口汚く罵りましょう。

 助けてほしいなら、一切の遠慮を挟まず「助けて!!!!」と叫んでみましょう。

 ……えっと、もう例が出てきません。
 たぶん、わたしの中に眠っていた本音(言えなかった感情)は、この2つに尽きるからかもしれません。
 今後思いつくことがあったら追記します。

 伝え方も、あなたが一番得意とする方法で構いません。

 テキストメッセージでも、電話でも、ボイスメッセージでも、手紙でも、会って話すのでも。

4 伝えたらどうなるのか?

 おそらく、何かが起こります。
「自分は無力じゃなかったんだ」と思えるようなことが。

 わたしは、ずっと謝ってくれなかった父親が謝ってくれて、なんか、「わたしって無力じゃなかったんだ、わたしの感情には力があったんだ」って、思えるようになりました。
 それまではずっと、「わたしが泣こうが喚こうが意味がない、力が無いと。力が欲しい」って思ってたんですけど、
 感情だって力だったんですね。感情を伝えることは力だった。

「それでも、どうにもならなかった……」という場合、
 もしかすると、……怪しくなってしまってアレなのですが、もしかすると先述の生きるために身につけた癖が抜けきっていなかったり、遠慮してしまったりしているのかもしれません。

 でもまずは、そんな自分を絶対に責めないでください。

 あなたは自分のために戦ったんです。

 その勇気はとんでもないものでしょう。死ぬ覚悟レベルでしょう。

 その勇気を出した自分のことを、めちゃくちゃに、デロデロに褒めてあげてください。

 それで、思い切り休んで(休む=何もできない自分を許す。次項5参照)、エネルギーが回復して、また挑戦したくなったら挑戦する、ぐらいに考えていきましょう。

※もっとも、関わるだけで危険という相手もいると思います。
 言うまでもないですが、そんな相手にはこの「伝える」をする必要はありません。多分、あなたもその人に本音を聞いてほしいとは思っていないですよね、だって危険な人だもん。
 危険なその人に何かを聞いてほしいというよりは、その人から助けてほしいという思いを、誰かに言いたい、というケースが多いんじゃないかと推測します。
 身の安全はまず第一です!

Point 「何かが起こる」

 この「何かが起こる」こそが、レベルアップの瞬間です。おめでとうございます!

 レベルアップ、つまり成長なので、自分にできなかったことができるようになる--本当のことを言うと「(傷のせいで)できないと思い込んでいたことが、本当はできるんだと思い出す」ことになります。

 わたしの例は上の項目で書いちゃったのでそれ参照です。
「自分は無力ではないし、人に助けてもらえる(人は自分を助けてくれる、親でさえ助けてくれる)」という認識を取り戻し、わたしはレベルアップしたわけです。

5 休む

 当たり前ですがこんなことをした後はめちゃくちゃ疲れます。

 なので、思い切り休みましょう。

 休むとはすなわち、「できない自分を無限に許す」ことだと、宵部式セラピー法では考えます。

 家事できなくても許す、
 勉強できなくても許す、
 ベッドから出られなくても許す、
 風呂に入れなくても許す、
 ゲームかYouTube見るかしかやってなくても許す、
 歯磨きできなくても許す、
 アイスばっか食ってても許す、
 人と関われなくても許す、
 人様に顔向けできない有様でも許す、
 許すどころか自分サイコー!!!!(これは思えなくてもいい、思えない自分も許す)

 っていう時間を存分に楽しんでください。

 休み方についてはこの記事でちょっと触れてます↓

 わたしは「ゴミクズみたいな自分を許す」っていう言葉が気に入ってるので、「休む=ゴミクズライフを満喫する」という言い回しをします。

 ちょっと楽しそうでしょ?

6 楽しいことやって、我慢しない生活に戻る。

 思う存分休んで回復してきても、「許す」は永久継続です。

 我慢しない、やりたくないことやらない、楽しいことやほっとすることをやる。
 そんな日常にゆるやかに戻っていきます。

 以上が、わたしがいつもやってるセルフケアでした。

 こうしてまとめて書くのは初めてでしたが、いかがでしたか?

 そういうわけで、もし今モヤモヤしていることがあるなら、

 そのモヤモヤはいったいどの傷に引っかかっているのだろう? という謎解きを始めてみませんか?

(わたしはこの謎解きが好きな変態なので、こんな記事を書きました。でも、謎解いて、自分の世界が広がるの、めっちゃ面白いよ!)

 

 

過去を掘る

創作をしていると、それも頭で考えて自分の上に何か積んでいく方式ではなくて、自分の中にすでに溜められたものをすくい取る形で創作をしていると、順調な時は畑を耕すみたいにふかふかな感触とその中で芽吹くだろう種の成長を想うのを楽しみながら書くことができるけれど、時々ゴツっと手ごたえにぶつかることがある。

その手ごたえの正体は過去に解決できないままそこに置いておくしかなかったわだかまりで、人はそれをインナーチャイルドと呼んだりカルマと呼んだりするのかもしれない。

そういうものを否が応でも見つけてしまうことは、私にとって悪いことか否か。
自己判断では否である。

確かにその過去の残骸とも呼べるものを目にして蹲ることもあるけれど、創作をやめようとは思わない。
掘って、耕して、見つけて、掘り起こすのを繰り返すのは、それこそが人生なんじゃないかって思うから。

要するに物を作ることは私にとって生きた心地を取り戻すことなのだ。
地に足つける、とも言う。
なくてはならないものだ。

心は、普通のかすり傷みたいに、瘡蓋ができたら何もせずにそっとしておけば傷が治るというものではない。というより、何もしないでいたら庇うことやその傷への刺激を取り除くことができないので、そっとしておくことはできない。
結局逃げ続けても向き合わなければ繰り返す。
実際私は繰り返してきて、もうそろそろうんざりしているし。

だから物を作ることで、私は確かに前に進めているという実感を得ているのだろう。概念的な、人生における前進がたとえ幻想でも、形になる成果物は実際手にできている。

時折辛いことを掘り起こして、今日みたいにその余波でぐらついても、それも受け止めると決めたのだ。

ゆっくり、自分に寄り添って、長い息で続けていこう。
明日も。

なんて取り留めもないことけれど、ここに吐き出しておく。