学校がしんどい君へ。7 〜思い出し悲しい〜

 わたしの悲しみは、だいたい「思い出し悲しい」なのかもしれないな、と最近考えています。

 自分の本意じゃないことを無理やりやれって言われて、でも身体が動かなくて怒られたあの時。
 具合が悪いんだと訴えても信じてもらえず責められたあの時。
 周りと話も感覚も合わなくて、敵意をぶつけられたりもして、ものすごい孤独を感じたあの時。
 誰かに常に見られていて、ちょっとでも普通じゃない、はみ出したことをしないように緊張していたあの時。

 そんなたくさんの「あの時」を、例えば空気の匂いとか、そこから今も続いている生きづらさとかの引き金で思い出して、過去から続いてきた今のすべてが全部全部悲しくなる。そういう悲しみなんじゃないかって。

 わたしのような感覚過敏は--っていうか学校がしんどい人って大体何かしら過敏(わたしからしたらこの過敏さが普通で、他の人が「鈍感」なわけですが)なんだと思うんで、わたしたちのような、って言いますが--わたしたちのような感覚過敏は、感覚をずっと覚えているんです。

 覚えているなんて意識は多分ありません。誰が何を言ったとか、何があったとかなら言葉にできますが、あの時こんな空気の匂いだった、なんて言葉にしている人は周りで見たことないし。言葉にすることがなかったら、自分が覚えていることすら忘れてしまうのは当然のこと。

 でも、覚えているんです。
 悲しかったこと、苦しかったこと、肚の底に鈍い痛みと圧迫感が垂れ落ちていく感覚を、空気の匂いと紐づけて、わたしはずっと覚えていた。

 単に言葉や記憶としてじゃなくて、あの時の感覚がそのまま蘇るんです。
 だから、今のことのように、今感じている感情と少しも変わらない鮮やかさで、悲しみや苦しみや不安や緊張や危機感を思い出してしまうんです。

 たった「この今」は何の問題もなくても、今までの悲しみにずっと苦しむ。
 こんな悲しみをずっと抱えてきた、今も抱え続けていることに悲しむんです。
 過去のことにならないんです。思い出せてしまうから。

 未来のことも似たようなものです。またあの時のような苦しみを味わいたくない!って恐怖します。それは、「あの時の苦しみ」が、今でも、はっきり、くっきり、思い出せるからです。

 何でもトラウマになってしまう体質だ、って自覚がありました。(本来 ”トラウマ” は、「思い出すこともできない無意識に隠れた心の傷」を意味するのですが、最近は単に「心の傷」という意味で使われることも多いので、あえてその意味で ”トラウマ” と呼びます)
 過敏なので苦しみを感じやすく、一度感じた苦しみをいつまでも覚えているからです。

 ……と、なんだか鬱々としてきましたが、でも。「思い出し悲しい」なのだと分かれば、今悲しいわけではないって分かります。

 ひとつ、自分の中で起きていることの構造がわかって安心しました。

 それに、今悲しいわけではないってことが分かれば、「じゃあ今は何が起きてるの?」って考えて見渡すことができます。

 見渡すことで、一つ一つ「今はあの時とは違う」ことを見つけて、安心することができます。

 同じなのは空気の匂いと自分の感情・感覚であって、例えばあの時に比べてわたしはずっと大人になったし、できることも増えたし、住んでいるところも違うし、親との関係も友達関係もずっといい方に変わったし……みたいに。

 あの時と現在を区別することができれば、未来のことも似たように対処できます。

 あの時と現在が違うのだから、未来もまた違うはずだって思えます。あの時と未来が同じようになってしまうわけがない、なぜならあの時と現在が違うのだから、と。
 これからは、あんなことは起こさせない、って、わたしは自分自身に誓います。現在の方が良くなったのだから、未来は現在よりもさらに良くなるはず、と。

 そこで「ふつう」に考えてしまうと、でもわたし、「ふつう」に生きられないし……みたいになってしまうのですが、そこは前回の「身体の自然に任せよ(さすれば上手くいく)」を信じ続けたいところです。

「身体の自然に任せよ、さすれば上手くいく」は、感覚過敏のお守りです。

 そもそも「ふつうの人」たちは、自分の身体からシグナルを受け取れないので、方法論やルールや成功法則を作ってそれに従うことで生活を充実させるのではないでしょうか?

 とすると、わたしたち感覚過敏がその方法論やルールに従えないのも自然な気がします。

 そもそも、わたしたちの身体が発する命令のほうが、方法論の元祖なのですから。

 自分の身体が教えてくれるお告げと、外側からやってくる方法論。元祖の方が優先されるのは当然です。
 そりゃ身体も動かなくなるし、「ふつうの上手いやり方」に従えなくもなります。

 わたしたちの身体にとっては、わたしたちの身体が教えてくれるもののほうがホンモノなわけですから。

 この「感覚過敏」っていうのも何だか味気ないですね。躁鬱大学(noteで連載されている読み物です。超おすすめ!!!)学長の坂口恭平さんは、「躁鬱人」とか「狩人」「シャーマン・メディスンマン」「医人」「酋長」など、色々なロマンあふれる表現(表現であり考察)をしているので、わたしも彼に倣って「感覚過敏人」をいい感じの言葉で表してみたいです。

 っていうか、過敏なのは何も感覚、五感などの感覚だけとは限りません。社会的な理不尽や他者の痛みに敏感、というのも十分生きづらさにつながりますから、立派な過敏体質です(繰り返しになりますが、わたしはそれが「過敏」と扱われるほうが問題だと思うんですけどね!!!)。
 というわけで、ひっくるめて「過敏人」と呼ぶことにしましょうか。

 わたしたち過敏人は、成功法則や方法論や自分ルールが要らない生き物なのかもしれません。要るとすれば、「身体の自然に任せる、従う」というルールくらいなのかも。

 今回のまとめですが、

・「ひたすら悲しい」「今までずっと悲しかったことが悲しい」は ”思い出し悲しい” かもしれない。
 ”思い出し悲しい” だとわかると、今のことでも未来のことでもないことが分かり、安心できる。

・過敏人は “思い出し悲しい” の名人だが、その分、身体からお告げ(自分専用の成功法則)を受け取ることができるっぽい。
 だから過敏であるのも悪いことばっかりじゃないってことは覚えておいて。

 ということです。

 最後まで読んでくれてありがとう。