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 ずっとさ、「そのまんまでいいよ」って誰かに言ってもらいたかったし、だからわたしも人に「そのまんまでいいよ」って言える存在でありたいと思ってたんだ。
「そのまんまでいいよ」って言える、言ってくれる人が増えてほしいと思ってた。
みんなが「そのまんまでいいよ」って言ってくれる社会にしたい、なんて思ってた。

でもそれは自分が自分に「そのままでいいよ」を言えなかったからだった。
今だからこそ気づけたことでしかないんだけど。
人に言ってもらえないと、「そのまんまでいいよ」を信じられなかったから。

別に「そのまんまでいいよ」って言える人を増やそうとするのが悪いことってわけじゃないんだけど。でも、どんなに願っても、「そのまんまじゃダメだ」って言ってくる人はいなくならない。
いなくならないし、そういう人にも生きる権利、存在する権利、変わらないでいる権利、「そのまんまでいい」権利は十分あるんだよね。
「そのまんまじゃダメだ」って言ってくる人も、「そのまんまでいい」の。
「そのまんまでいい」ってそういうことでしょ?

だからその人がその人として在ることを尊重しつつ、自分も自分を守るにはさ、そういう自分を不快にしてくるものと関係を絶って、自分専用の世界を作ればいいの。

聞き入れる必要はないし、関係ないし、真実なんかじゃないんだよ、自分を不快にする、しかも赤の他人の言葉って。

「そうは言っても、わたしにはできない」「現実的には、それじゃやっていけない」って思ってたのね。
でもどうやら違うんじゃないかって最近は思えてきた。

昔、「〇〇したい」「〇〇嫌」って言ったら、「そんなんじゃダメ」「そんなことを言うなんて悪い子」って言われた、それが辛くて怖くてもう二度と起こらないでほしいと思った。だからいい子にした。「したい」も「嫌」も、ダメそうなら呑み込むようになった。
それ自体はさ、当然のことだし、悲しんで、恨んで、怒って、苦しんで当然のことだよ。

でも、誰かにダメって言われたからって、自分もそれをダメって思わなきゃいけないわけじゃなかった。

「ほんとにダメなのかな」って疑って、勇気を出してやってみたら、全然ダメじゃなかった。

それどころか、自分のしたいようにできたって満足感が湧いてきた。

わたしの場合はね。

常識とか道理とか社会通念とか、そういうものを受け入れて生きようと考えてるのは他でもない自分なんだよね。

そういうものに従わなきゃいけないって考えを採用したのは自分自身なの。

あのね、自己肯定感が高いから、自分を信じて自分の思うままに行動できるんじゃないみたいだよ。
わたしの経験則だと、自分を信じて自分の思うままに行動すると、「わたしはわたしの思うようにしていいんだ」って自己肯定感が高まるんだよ。
順序が逆なの。
これマジ。

自己肯定感が高いって、別に自分を信じるのが怖くなくなることじゃない。
いや、些細なことは怖がらなくなるかもしれないけど、ひとつ何か怖いことをクリアした後はもっと怖いことに挑戦して、さらに自分を自由にしたくなっちゃうから結局恐怖を感じるのは変わらない(美味しいものが好きな人はどんどん美味しいものを求めていくじゃん、そんな感じ?)。
だからまず飛び越えてみることだけ。

そうは言っても、自己肯定感が低いと、自分を信じることも自分の思うようにやることも、めちゃくちゃ怖いと思う。「そんなことしたら、自分は大変なことになって生きていけなくなる」って考えるほどに。

でもその「怖い」ってさ、「注射怖い」「初飛行機怖い」みたいなものなんじゃないかな。
注射って確かに怖いし痛いけど、打った後死んだっけ? 一瞬じゃなかった?
「え? 終わり? 終わった? ホッ……」みたいなもんじゃない?
その怖さと一瞬の痛みの後には免疫がつくわけじゃない。
どんなに一瞬の、終わってみたら些細なことでも、その当人にとっては大きすぎる恐怖なわけだけど。
でもその当人もそれを飛び越えちゃえば、案外拍子抜けするんじゃないかって。
(あ、恐怖症も無理すれば治るとかそういうことを言いたいわけじゃないです、そういう我慢する無理は良くない。ただ「これ以上我慢しないためのえいやっ!」は積極的にしてみては? ってことです。)

自己肯定感と免疫って似てると思う。
免疫があったら、身体に悪いものが入ってもちゃんとやっつけられて病気にならない。
自己肯定感あると、たまに嫌なことがあっても自分の根幹に響かないから病気にならない。

休みたい時に素直に休むようになって、わたし、同じ空間の中で他の誰かが怒られててもビクビクしなくなった。
ほんのついこの間までは、めちゃくちゃ恐怖を「もらっちゃって」たのに。
強すぎる共感能力を制御できるようになった感じ。あと、「思い出し怖い」がなくなったのかも。
風邪菌が身体に入ってもすぐやっつけられたーみたいな感じだった。大きな進歩。「わたしはわたしを守れた」「わたしはわたしのしたいようにできる」って、さらにまた自信がついたよ。
わたしはずっと他人の怒気に負けない自分になりたかったから。他人の怒気から自分の根幹を守れる自分になりたかったから。

痛みと怖さの先に自由と快楽があることに気がついたの。

と言っても、どんな痛みでもいいわけじゃないけどね。これは「踏み越えていい痛み」とか「これは不快な痛み」とか、そういうの身体感覚でわかるじゃん? 凝ってるところを揉まれる痛みと鋭いもので身体を引っ掻く痛みって違うじゃん? そんな感じ。