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マーシャル・マクルーハン+エリック・マクルーハン 監修・序 高山宏 訳 中澤豊『メディアの法則』 NTT出版 20002年

 の講読メモです。

 水色の箇所は本の内容ではなくわたしの感想や推察です。
 灰色の部分はわたしの注です。
 緑色の部分は、文章の内容としては脇道だけれども、わたしの興味を引いたので抜粋した部分です。

 この記事ではコメントを許可しているので、わたしが何か間違ったことを書いていたり、問題のある書き方をしていたり、耳寄り情報があるなどの場合は、コメントに書き込んでお知らせいただけると大変助かります!

監修・高山宏氏による序

『メディアの法則』はマクルーハンの遺稿

 マクルーハンもオングもイエズス会の人!
 エリザベス・シューエル『オルペウスの声--詩と自然誌』(1960)
 エリオット カトリック・リヴァイヴァル
 カトリック・パラノイアとしてのマクルーハン・メディア論の台頭
 ↑20世紀のカナダ カトリックとプロテスタントがぶつかり合う地

『メディアの法則』の拠り所 図と地の理論 エドガル・ルービン(ルビンの壺)
 マックス・ヴェルトハイマー ゲシュタルト心理学
 ユングの元型論ー「隠されていた地の浮上」--ノースロップ・フライの元型・神話批評

「分析」から「統合」への時代だったポストモダン
『メディアの法則』は、「分析」と「総合」の関係の額である文学を最大級のスケールで捉え直す文学論・詩学でもある(高山)

「メディア」の概念を本来の神秘主義宗教での宇宙的含意(巫女、導者)まで突き戻す
 メディエータ=媒介者≒霊媒師という言葉もあるもんね。

 マクルーハンの、聖数4へのこだわり
 素数2の平方=総合化・積分化をめざすあらゆる想像力に力を与える「普遍の鍵」
 積分化とは何かについては、積分について調べたらちょっと分かったかも。これまでの歩みを総合したり、蓄積として見たりすることかな。

 中心が何処にもあって周縁とか円周がどこにもない球=マクルーハンがイメージする聴覚的世界=中世のスコラ学での神の定義
 聴覚的世界を神秘化しすぎることの問題点も述べられるようになりたい。その上にじゃないとわたしがどう考えるのかまで考えが行き着かないな。

「電子メディア空間における知覚と身体性についての議論に『グーテンベルクの銀河系』(1962)が立脚点になる(要約)」(松岡正剛)
 マクルーハンは消費されてきたと筆者は主張

『グーテンベルクの銀河系』は印刷形式、ページフェースの視覚的印象が斬新
 モザイク的論述法 ロマン派の「断片(フラグメンテ)」 スーザン・ソンタグなら「並置(ジャクスタポジション)」と呼ぶだろう手法
 断片を使って総合に向かうのは読者、きみ自身なのですよ、というわけだ
 なにそれ超かっこいい!!! わたしもそれやりたい!!!! グーテンベルクの銀河系読まなきゃ!
 メディア感覚の良い現代批評は自らの紙面構成や活字級数にまで細かくデザイン的配慮を行き渡らせないではおかない
 なんかキャシー・アッカーの『血みどろ臓物ハイスクール』も、あれは形態としては物語だとは思うけど(批評ではなく、ってことね)似た美意識というか哲学を感じるなぁ
 本そのものの構造を通してメディア論の中心課題を論じる、いやパフォームする
 紙面と遊ぶものこそポストモダン思想(筆者の主張)

『オルペウスの声』(シューエル)もそう。
 長い文章を小刻みに切って、それぞれに内容をあらかじめ要約する、長めの文章になった見出しがつく。
 文章になった見出し。イメージとしては文章になったタイトル(web小説でお馴染みの)? いや、どっちかというと詩や短歌の前の詞書(ことばがき)を思わせる! うん、それがぴったり似てる気がする。
 マクルーハンのテトラッド・ページ、
 シューエルの「メタファー」論を使った自作の詩の「オルペウス詩篇」
 シューエル曰く、「哲学に接するギリギリのところで文学は散文からどうしても詩になる」
「世態風俗の描写」(高山宏)に留まれば散文になるのかもしれないが、哲学しようとするとどうしても詩になる、と。確かに散文が「実用的な、写実的な、覚書的な、即物的な文章」だとするとそりゃそうなるわな。

 形式と内容がマッチする表現 一冊の書冊として存在する批評
 こんなん芸術作品じゃん。それも現代アート的なやつじゃん。わたしが目指すものじゃん。
「アルファベットによる視覚文化の終わり」を論じるからには
 これはでも、「古いメディアである書籍として出すからには、そして古いメディアの環境に慣れた人々に向かって書くからには、古い書き方で新しいものを論じるべき」という意見もありそうね。

「詩」と「メタファー」に現れる「総合化」への動き--シューエル
↑をメディア論という衣装の下でやっているのがマクルーハン
 合理精神の負の力、諸観念の「分断」を総合してくれるもの→シューエルはメタファーに、マクルーハンは電脳が可能にしてくれる聴覚空間に見出していく。
 そして「詩」へ。
 悔しいけどこの「統合」を詩に求めるという点については完全に同意してしまうな。メタファーも分かるかも。シューエル読みたくなった。
 一文一義とか、そういう世界じゃない言葉だから、詩や格言というのは。いくつもの意味をプリズムのように屈折させて単一の点に集める(『メディアはマッサージである』より)もの。
 ただ聴覚的世界=詩なのかどうかは疑っていかないといけない。安易にそういうことにしたいからこそ疑って、本当にそうらしいと言えるまでは保留しないと。

「普遍記号」論のライプニッツ世界の回復

 T.S.エリオットの「伝統と個人の才能」(1919)
 1910年代 世界の断片化の悪い予感が未曾有の大戦争で現実のものとなった
 じゃあ今は統合による搾取の世界なんだね
 20世紀の思想は結局、「再総合化の夢による分断の弥縫(びほう)」の一つに収斂している?
 グスタフ・ルネ・ホッケ『文学におけるマニエリスム』(1959) マニエリスムもまた、「断片化→総合」「再-積分」の本 メタファーの機能に文学の世界回復の力を賭けるマニエリスム
 メディア詩学

 分断された世界のオルペウス的統一
 緊縛された世界のプロ(メ)テウス的解縛

 バーバラ・スタフォード『ボディ・クリティシズム』(1991)
 彼女は反近代の癒しの世界をも、電脳が可能にした視覚的世界として描こうとした
 ⇔これからは聴覚と「共鳴する間」だとするマクルーハン(基本的に視覚/聴覚、分断/総合など二元的)
「共鳴する間」とは何か? これは用語集を作るなら入れておくべきかな。
 スタンフォードの最新刊(2002年当時)『ヴィジュアル・アナロジー--つなぐ芸術(アート)としての人間意識』(1999) 「つなぐ」力としてのメタファーと「愛」 人間意識を電脳的プリコラージュとする
 結合知

 1920’s-1930’s アスコーナ(スイス) エラノス・マインド
 1950’s-1960’s トロント 「カトリック・パラノイア」

 エラノス会議 ユングを中心とした元型心理学、人類学と心理学の本質的なところでの融通、外殻としての量子物理学とゼン・ブッディズム→近代合理精神の行き詰まりを突破しようとしたサイ科学 サイはサイキックのサイ

 1950’s  電脳時代の本格的幕開け+「思考の生物学」知が生物学からインスピレーションを受け始める
「思考の生物学」! これがフーコーが批判した「自然」とか「生物学的事実」とか「本能」とかに繋がっちゃうわけね……難しいよね、人間の脳や精神だって確かに生物学的に生まれたものとはいえ、その脳を使って人間は社会を構築してるわけだから、生物学的自然じゃなくて社会的=人為的、恣意的に作られた「自然」になってっちゃうのはむしろ必然なわけで
 合理 VS 非合理 → 左脳 VS 右脳(スプリット・ブレイン理論)1970’sからはこれが普通に

 20世紀のサイキックな文化形成史(ハイゼンベルクからニュー・エイジ運動まで)
 ワイリー・サイファー『文学とテクノロジー』(1968) マルクス主義も取り込んでいる

 マクルーハンは英文学者である。ブレイクに始まりジョイスに終わる、メディア色濃厚な作家や詩人を相手にした英文学者
 シューエルの批評
 18世紀の崇高美 アーネスト・テューヴソンの自然論・「恩寵」論は観念史派のバイブル
 ↑これらもマクルーハンは自分のチャートに入れ込んでいる
「観念史」も日本ではろくに知られていない(2002年当時)

『メディアの法則』以前に邦訳されるべきものはいっぱいある。そうして初めて『メディアの法則』の真のレジュメ力、発展力の見事さは知られるのではないか。
 電脳メディア論がトリウィウムー中世スコラ学の修辞学や弁証術と直結する呼吸
 電脳文学論にスライドしていった文学研究者リチャード・レイナム『雄弁の動機』(1976)
 修辞学を知らないで読んでいる(つもりの)シェイクスピアなど、「文学」という名の幻でしかない
 えぇ……そりゃーまあ……ヨーロッパの修辞学は知らんかもしれないから、ヨーロッパの文学を読むには確かにヨーロッパの修辞学勉強する必要があるだろうけどさ……
「修辞学を」知らないって言い方は流石に言い過ぎじゃないのか……
 わかんない 修辞学ってもはや文学どころか語学の世界にも行くもんなあ 言葉の数、文化圏の数ほど修辞学にも種類がある気がする……
 とりあえず日本人だって何かの修辞的な技法や感覚は身についてると思う、ただそれがヨーロッパ的なものでは全然無いというだけで

 まあ、いずれ修辞学も掘ってみないといけない気はするけどほんとに言葉と文化の違いっていうのに超ぶつかりそうで何からやったらいいのかわかんない感じ…… ああでも分析に使うんなら、その分析対象が属している文化圏の修辞学の系譜を辿ればいいのか……それならまあ足掛かりはあるか……
 日本のものだったら明治維新以降輸入された西洋の修辞学の受容と、それ以前の日本が使ってきた修辞学や修辞学的感覚の両方を考慮すればいいのかな
 だからつまりヨーロッパのものを読むなら、ヨーロッパの修辞学をちゃんと勉強しろよって著者は言いたいのかも

 フランシス・ベーコン『新機関(1620)』→ヴィーコ『新しい学(1725)』→『メディアの法則』は一線上に並ぶ(マクルーハン曰く)
 シューエルもベーコン→ヴィーコ→『オルペウスの声』 そこからシェイクスピアの喜劇、リルケ(1875-1926)の詩、カッシーラの哲学を一線上に並べようとしている

↑のような「知る」ことの「方法」をめぐる思索の系譜を追えているのがジョージ・スタイナー
「知る」ことの「方法」をめぐる思索=身近な言葉にすると「世界観」かな。
スタイナー『脱領域の知性--文学言語革命論集』
「言語学と生物発生学との間の語彙の目覚ましい出会い」「生命の輪郭線」
「ルネサンスーバロック期の、全的見解、文法と人語の創造的容態は全自然の中にその対応物を持つという信念(要約)
 つまり、言葉と自然、思想と実践、精神と物体、シニフィアンとシニフィエを分けない考え方? ポール・オースターの小説『ガラスの街』に出てくる架空の言語学者(だっけ)ピーター・スティルマン(父)が言う「バベルの塔以後の自然界とバラバラになった言葉」っていうのは、この言葉と自然の分離にも関係ありそう
 シニフィアンとシニフィエでお馴染みのソシュールは1910年代に亡くなっている。

 1950’s〜 電脳マニエリスムの時代

 マクルーハンはもはや「メディア」論という狭い世界のものでは無い

 中世スコラ学がわからねばならない。
 ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』(1980)の世界
 何かの対象をと言うよりは「方法」そのものを問う手法 トピカの修辞学から「共通感覚」までおさえて然るべくヴィーコする中村雄二郎
 シューエル、シュタイナー、マクルーハンを一線上に教えてみよ
 フライもマクルーハンも、メディアと神秘主義に同時に深く関わったウィリアム・ブレイクから出発している

2021.06.11 書き始め