もしかしたらわたしはずっと自分を変えようとしていたのかもしれない。
初めは自分を成長させようとして。大人になろう、できることを増やそう、と思ってた。
それがうまくいかなくなってからは、他人に期待したり、世界に期待するのをどこかで諦めてーー期待しないという言い方がしっくりこないので、勝手に失望して、と言った方がいいのかなーー自分が考え方を、見方を、接し方を変えればいいんだと思った。
でもそれって他人に期待したい自分とか、世界に期待したい自分と仲良くやれてないんだよね。
自分の感じたことは受け取ってもらえない、自分のしてほしいことは断られる(そりゃそういう時もあるけど、たまたま都合が悪い場合は仕方ないけど、わたしはそれに対して「ひどい!」と感じたり言ったり食い下がったりする権利もあるということ)、だから何もかも自分で叶えてやるんだ!!! ……って、それって、やっぱり、拗ねてるじゃんね。
でも怖いんだよね。否定されるのが。怒られるのが。
トラウマのフラッシュバックそのものの、全身の萎縮と震えと思考の停止とパニックと絶望感、非合理的な恐怖感が襲ってくる。足元が崩れて真っ逆さまに落ちていくような、世界にその人の形をした怪物と震える自分しかいなくなってしまったような、誰も助けてくれなくてどこにも逃げ場がなく、ただ相手の気が済むのを待つしかないような、それまで自分の感覚をできるだけ殺すしかない、そんな「あれ」としか言いようのない破局。自分を殺さなかったら自分が何をしでかしてしまうのかが分からないから、余計に恐ろしい、あの世界がバラバラになる瞬間。
そんな危険には飛び込みたくない。
でも、そうやって危険を回避するばかりの自分の生き方が、よく嫌になる。
結局関係ないんだよ、わたしがどう足掻こうと怒られるときは怒られるし、嫌な思いするときはする。それでも自分で本心から選びたいものを選んで行動したい、って思うんだけど。
でも、怖い。恐い。
気の立った怪物と同じ檻に入れられて耐えるしかないのは、嫌なんだよ。だったらそうなる前にちょっとくらい不自由したほうがマシかなとか、従っとこうかなとか顔色伺っとこうかなとか媚び売っとこうかなとか、思っちゃうんだよ。
実際それでもいいんだと思うんだけど、わたしはでも、それじゃつまんないって思っちゃうのね。
ここまで書けばお察しの通り、わたし、まあ普通にACだと思うけど、根はメッタメタに人に従えない人間だからさ。
人の意見を聞けなすぎて、人に何かを教わることが壊滅的に無理。うるせえ、押し付けがましいんだよ、わたしがどんなやり方しようがお前には関係ないだろうがよ、黙れよって思っちゃうの。あはは。
怖いを塗り替えるためには、怖いに飛び込んで、案外怖くないことに気づくしかないって思う。
だけどそりゃ怖い、死ぬ、と思う。
あーあ。
なんでわたしばっかり(ほんとはわたしだけじゃないはず、それも分かってるつもり)こんなに恐いの。なんでわたしばっかり普通にできなくて、わたしばっかり色々言われなきゃいけないの。
ただ生きてくだけでこんなに辛いの。
もうさ、
わたしの涙、一粒一万円。
わたしの経血、一滴五万円。
わたしのフラッシュバック、一回十万円。
そう思わなきゃやってらんない。
怖いことに飛び込んだら、それって全部ブログや創作のネタになるかな。
それこそが自分の涙や汗や血や体験を売ることになるんじゃないか?
捨て身だなそれって。まさに人体実験。
……でもそれって、ほんとはそれこそが癒しかもな?
思うんだよ、強くなるって武器や守るものを増やすことじゃなく、ほんとうに必要なもの以外を捨てていくことなんじゃないかって。
でも、そうしたら欲しいものってむしろ、荷物のスロットが空いた分手に入れられるようになるんじゃないかとか。
わたしは今まで「こんなことしてたら怒られるかも」っていうのを避けて、常に気を張って疲れたり、怒られる未来を予期して先に悲しくなったりとかしてたけど、その「かも」ってただの過去のはずなんだよね。
経験則ではあるけど、実用的で自分の見方をしてくれる法則じゃない。
それは「トラウマ」と呼ぶこともできてしまえるモノ。ほんとうは事実じゃない。
結局全ての悪いことは、
起きてから考える、起きたらここに書く、に尽きるのかな、なんて。
だいじょうぶ、何が起きてもここに書けるから。
……とか、それが勇気になるのかどうかは、正直今はピンと来てないけど。
怖いことに飛び込んでみようかな。
それが何なのかは、目の前に来るまでわからないから、来た時こそが勝負だけどね。