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 自分が女の子であることをよく忘れてしまう。

 だから空想の中であの子があの子がやってあげるように、優しい手つきでわたしに触れたいし、
 穏やかで暖かな愛情で自分を包んであげたい。
 効率とか生産性とか貢献とか、そういうのって何か違う。
 支配者の理屈だ、生きる者のものではなく。

 ビョークの曲の中での時間の流れ方は不思議だ。
 気がついたら悠久が経っていたようにも感じるし、今ここにある瞬間を味わい尽くしているようでもある。
 きっと本当は時間はそういうふうにできている。
 一瞬は永遠だし永遠は一瞬。

 それってなんだか微分的でもあるし積分的でもある。


 合理性とか客観性のことがよくわからない。
 合理的だとか客観的だと判断するのもまた主観だから、
 どれぐらいそれまでの前提との関係を説明するかでしかないんだろう。
 最近また卒論に心を亡くしていたけど、ようはこの2つの言葉が、わたしを2,3年ずっと苦しめている。
 学問は、科学は(わたしのしていることはカルチュラル・スタディーだけど、人文科学や社会科学とは言える)、合理的でなければならないって。
 ひるがえってわたしの身体も心も、感覚なしでは生きていけない。
 だから感覚を言語化したものを支えるために資料を読むのだ、としている。

 身体の感覚に還ること、身体の速度に還ること、それがすなわちわたしにとっては、自分が女の子であることを思い出すことだ。
 それと愛を思い出すことも。

 愛は、積極的に肯定することだ。
 否定し「ない」ことではない。
 積極的に大切にすることだ。
 粗末にし「ない」ことではない。
 実際に何かをするわけじゃなかったとしても、いつだって何かをしてあげたいと思う、静かな熱を持った気持ち、それが愛だ。

 静かな熱だから、それはすこし血に似ている。
 息にも似ている。
 ということは、風にも似ている。

 誰かや何かを労るとき、お世話をするとき、わたしは愛を思い出す。
 だから人に優しくしたいっていう欲望があるのだ、自分が女の子だってことを思い出せるから。
 だけど、そういう時こそ本当は、自分のことを女の子として大切にしてあげるべきなんだろう。
 優しく髪を拭いて乾かして、ふわふわなものにくるまってぼーっとするのだ。

 夢小説でも書こうかなって思った。
 愛とか恋とかについて、好き勝手妄想することを思い出したっていいはずだから。
 書くことで、こんなふうに愛されたいんだなってわかるから。


 どんなに大人ぶっても、できる人間を演じても、
 もともとはちっぽけな、ひとりの女の子でしかない。

 そこに根を下ろせたら、そこに息を通わせられれば、
 わたしはこの世界と繋がれる。