わたしは不安や恐怖を感じやすい。
だからこそ自分の持てる力全てを持って「やるべきこと」を探してする、というふうに、優等生を目指してしまう。「やるべきこと」をやっていれば恐怖や不安から逃れられるからだ。
けれど同時に、そんなことを繰り返していくと辛くなってきて、もうこんなの嫌だ、破天荒でも危なっかしくても自由に生きたい、と思い始める。
けれど、それで自由に生きようとすると、またとてつもなく大きい不安や恐怖がやってきて、わたしを飲み込み、わたしは身動きができなくなってしまう。
それでまた、誓うのだ。「ごめんなさい、ごめんなさい、もう自由になろうなんて思わないから許してください」と。あるいはすべてから逃げたいと思ってしまう。不安や恐怖に飲み込まれるのは、あまりに辛い。
側から見たら、わたしが不安や恐怖を感じている対象はそこまでのものではないのだろう。わたしだって頭ではそう考えられる。でもわたしからすると、生命の危機レベルの感覚を持ってしまうのだ。まったくもってトラウマティックなほどの。震えと涙が止まらなくて、身動きもできなくなるほどの。
あまりにもひどいので、精神的な病気なんじゃないかと思ったりもしたけど……たとえそうだったとしても、わたしの元々の気質がだいぶ影響しているだろう。
その不安を、自分自身で温めて溶かしてあげられるようになること、これが大切なのだ。
だけど、そんなことできるんだろうか。
できるできないっていうより、不安に飲み込まれる時間の辛さがとんでもない。
喉元を過ぎれば忘れてしまうが、朝目覚めた時の慄然とする感じが、どうしたって耐えがたい。
それでも足掻くように、布団の中でそんな自分を抱きしめて、優しい言葉をかけてあげるけれど、不安は暴れ狂い続ける。
「おまえがもっと上手くやるべきだった」、「もっと早く動くべきだった」、と。
わたしはいつもそうだ。それを真面目と言うのだろうけど、もっと上手くやれたはず、もっと上手くやるべきだった、という念を、ともすれば抱いてしまう。
上手くやる、というのに根拠が無いということも、わたしは頭ではわかっている。「一体どの基準で?」「当時のわたしはわたしなりに考えて動いたはず」と、わたしはわたしを宥める。けれど宥める声よりもずっと、責める声の方が大きい。
まるで、泣き叫んでいるみたいだ。
わたしを責めるわたしは、わたしを責めるわたし自身が、むしろかの存在こそが、わたしの不安と戦っているのではないか。
けれど、敵の--つまり不安や恐怖の--あまりの大きさに辟易して、過去や現在のわたしに武器を向けるのではないか。
かの存在は、実は誰よりも不安や恐怖に直面して怯えている。
わたしはかの存在の、不安や恐怖に怯える気持ちを、ちゃんと抱きしめてあげられているか?
これは作品を作る上でも使えそうなことだが--
恐怖のあまり武器を振るう人間には、愛を持って飛び込まなければ、通じ合うことはできない。