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 大事なのは名詞(肩書きや名声、属性etc.)ではなく動詞(何をするか、どんな行動をとるか)だ、ということは言われて久しい世の中な気がするけど、わたしは形容詞が大事だろと思う。
 例えば同じ「歩いた」でも、楽しく歩いたのかしんどく歩いたのかじゃ全然内実が異なるはずだ。
 そしてその「楽しい」や「しんどい」を、人はなんとなく感じ取って、かつ、自分が気にいる方に惹かれるんじゃないかと思う。
 つまり、一番大事なことは目に見えないってこと。

 わたしも、このブログをよく読んでくれる人がどれぐらいいるのかってわかんないのね。個人サイトにはフォローっていう概念がないに等しいから、フォロワー数っていうのがない。
 だからYouTubeのチャンネル登録者やTwitterのフォロワー数をしばしば見張る生活をしてしまっていたけど、もうやめたい。やめる。やめました。

 まずはこのサイトやブログでわたし自身のこと好きになってもらえたらそれでいいよ。ここが本拠地だからね。
 YouTubeやTwitterにはアカウントを持ってないって人も読んでくれてるかもしれない。持ってても、このサイトから飛べるからチャンネル登録やフォローがいらないのかもしれない。
 確かに、わたしと似た気質の人が集まるのだとすれば、そういう人にとってTwitterやYouTubeは刺激が多くて嫌な場所かもしれないから、それでいいの。

 大事なことは目に見えない。これをアンカリングしたい。人と比べて落ち込んだり、数字を気にするのって超体力の無駄だもん。
 でもやっぱりまだ感性が小市民を抜け出しきれてないから、数字見て落ち込む。
 頑張ろう。そんなんじゃ隠者と胸張って言えないゾ!

「隠者って何の話じゃ?」って方はこの記事↑を読んでね!

 数字だって結局、「目に見える安定」でしかなかったんだね。
 わたしはまた自分の外の尺度に踊らされてしまうところだったわけだ。
 世間など知るか、安定なんて諦めたと言いながら、まだまだ世間や安定に無自覚のうちに張り付いていたんだなあ……
 あと人からの評価や名声もね。どうでもよいと思いきれていなかったのだ。とほほ。

 諦めるっていうのは今だけの話でさ、自分にだけ一点集中していたら、最終的には全部手に入ると思ってる。
 ただ、今は人からの評価とか、世間とか、安定とか、考えてるだけで邪念だから、自分への集中を阻害するので、切り捨てる必要があるのだ。

 この記事↑に書いたように、わたしはアジールなインターネットが好きなので、フォロー・フォロワーの概念がないということはアジールであることを助ける特徴の一つなのかもしれない思う。
 それにわたしの庭国は「森」の向こうにあるのだから、わたしの国から見て「森」の向こうからやってくる人がどこの出身かなんて、そこまで詮索することではないのである。

 むしろ、そんなことより「森」をくぐり抜けてわたしの国まで辿り着いてくれたことだけで、十分だ。十分その人はわたしにとってもてなすべき存在だし、その人すごいしやばいと思う。
 ということでこれを読んでいる貴方はすごいしやばいしわたしのお客様です。
 たまに出身地のお話が入ってきたら、それはそれで新鮮で楽しいだろうとも思うけど、わからないと不安になるという類のことではない。
 まして、定期的に来てくれる人をカウントするシステムなんて、宵部庭国には無いしいらないのだ。

 フォロー・フォロワーが人との「つながり」を数値化するシステムなのだとしたら、わたしはそれは自分を縛るものと見做すだろう。それってなんか、世間に所属しているみたいだ。それも自分である程度デザインした世間。うーん……
 世間を自分でデザインするぐらいなら、世間自体がいらなくないか? 自分の王国でよくない? という発想でここにいます。

 人との繋がりさえあれば何かを生み出せるっていう価値観、わたしは好きじゃないんだよな。まず自分だろと。
 そしてその「自分」が、「人との繋がり」によってジャミングされるということもあると思うのね。ソースはわたし。何度もそれで迷ってきたからさ。

 人と関わることによって変化する人間、っていうけど、まあそれはそうなんだけどぉ……
 ほっといても、人と人は勝手に、どうしようもなく、関わることになるし、勝手に、どうしようもなく、ケースによっては気づかないうちに、他の場合だと他に致し方なく、変わるもんなんだから、他人との関わりが自分を変えてくれたり自分とは何かを教えてくれたりするって思って人と関わろうとすんのって他人に期待しすぎだし自分が無くない????って思います。

 自分とは何かって自分しかわかんないでしょ。
 よく、四つの窓って言って、
 ・他人からも自分からも見える自分
 ・他人から見えて自分からは見えない自分
 ・他人からは見えなくて自分には見える自分
 ・他人からも自分からも見えない自分
 ってやつが人間関係とかの話では引き合いに出されるけど、ぶっちゃけこれ考えるのって体力の無駄じゃん?と思ってるよ。
 面白い話だなあとは思うけど、行動の指針にする気はわたしには全然ない。
 自分とは何かって自分にしかわかんない、というか、自分が思うことが全てでしかないじゃんと思ってる。
 他人から見える自分がどうかなんて、気にすることないし、気にしたところで自分の在り方を変えられるわけじゃないじゃん。変えようとしたらわたしは体調崩すもん。ソースは↓

 そうだね、「自分しかわかんない」というより、「自分にしか決める権利はない」と思ってる。
 そこにわざわざ他人目線を持ち込んじゃうのって、判断が鈍るし、濁るじゃん。

 ……なんか話が逸れてきたけど。
 大事なことは目に見えない、だから落ち着け、見える数字に惑わされず、自分も形容詞を大事に活動していけよわたし……! という祈りだか誓いだか自分への叱咤激励だかです、この記事は。

 ハイパー隠者になるための道は遠いのう……まあだから面白いんだけどさ!
 いや、てか、弱冠21歳でハイパー隠者になってたらこえーわ。藤井聡太氏か。
 ……がんばろ。わたしもがんばろ!