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 時々、朝起きて、自分の隣になんの温もりもないことが、寂しくなることがある。愛なんて重くて、情念で十分だと思っているけど、私の交わしたいものを交わせる相手とは、未だに出会えていない。

 寂しいからって誰でもいいわけではないのは、決して豊富と言えるわけではないにしても、自分の中で小さくはない失敗たちのおかげで、よく心得ている。……っていうか、誰でもいいわけではないから、この人がいいって相手は手に入らないから(人を手に入れられるはずはないんだけども、感覚的には「手に入らない」という言葉がしっくりくるのだ。「手が届かない」でもいいのかな)、私は時々澄みすぎた冷たい空気の中に立ち尽くすような気持ちになるのだ。

 恋愛関係ということになると、「わたし」と「きみ」の間にある透明な壁が急によく見えるようになる。私はそう感じることが多くて、だから色々と諦めている。恋愛に夢を見ない、恋に恋するのを卒業したどころか、恋に失望している。

 私はあまり自分を女だと思ったことはないし、そう名乗ることにはかなり抵抗があるけれど、自分の身体がおんなと世間一般的に呼ばれる形をしていることについては、さほど気にならない(服を着るときに胸が目立つのは嫌だが、かといってその胸を取り去ってしまいたいとは思わない。胸が目立たない服を選ぶ。そんな感じだ)。でもそれは、おんなの身体に抵抗がないというよりも、それが自分の生まれ持った身体ならば、せっかくだしそれで生きてみるかー、という気持ちだ。私はそれをおんなの身体だと認識できない。それはわたしの身体でしかない。ジュディス・バトラー的にもそうなのでは? と思う。「おんなの身体」「おとこの身体」というもの自体、社会的な構築物で、実際にはそれぞれの身体があるだけ、そういうことだ。

 ところが、そこに他人が入ってくると急に訳が分からなくなる。他人というのは「わたし」に対する「きみ」でも十分だし、「その他大勢」でもそうだ。「わたし」以外からすると、どうやら私はおんなにしか見えず、そして私の恋愛対象は男性なので、でも私はどうやったって世間一般の(?)異性愛に馴染めないのだ。好きな人と家族になるなんてしんどい(「家族」って言葉はいろいろな問題を覆い隠すブラックボックスだと思う)し、夫婦になりたいとも思わない。ただ情念で繋がってさえいればいい、そう思う。もっと目先の話だってそうで、そりゃ私だって好きな人には魅力的に見られたいけど、その魅力とは別に「女性的魅力」じゃないのだ(それが何かもさっぱり、見当もつかないのだが)。相手の魂を愛おしみたいし、私だって魂を愛されたい。その現れとして肉体的な触れ合いがあってほしい。そう思うのはあまりにも理想主義的なのだろうか。いやでも、自分が関わってくる愛に自分なりの理想というか、希望を持つのは、自分自身のために大切なことじゃないか。

 それなのに、私が今まで関わってきた何人かの「きみ」は、私をガラスの壁の向こう側の人間として見る。いや、自分の性自認がXであることに、その時は私は気づいていなかったから、それも仕方がないんだけれど。でも……

「異性」というガラスの壁。

 それがあるからこその異性愛だ、っていうことなのかもしれない。もしそうなのであれば、やっぱり私は全然シスヘテロじゃない。私は「異性」と恋愛をしたいなんてかけらも思わない。ただ恋愛対象が男性で、身体がおんなで、性自認はXで、好きな人と恋愛したいだけだ。その人であればなんだっていいけど、恋愛的に好きになる「その人」は、どういうわけか男性ばかりだ、ってだけだ。

 あるいはそうじゃない「きみ」は、私の手の届かないところにいる。

 ……なんだかしんどくなってきた。こんな文章書かないほうがよかったかもしれない。結局どうしようもない寂しさがそこにある、ということを直視しただけの文章だ、こんなの。ただなんとなくモヤモヤして、物事に向かう自分の足を重くさせるこの蟠りを整理しようと思って書いたけれど、書いても解決策なんて見つかるはずもなかった。まあそりゃそうだ、相手がいる話だもんな。私自身が何かすることだけで変わったら、とっくにそうしている。オチのない話で恐縮だけれども、この話はこれで終わりです。おしまい。解散。あーあ。