学校がしんどい君へ。6〜身体の自然〜

 なんか、自分はずーっと、自覚したのは小4からだけど、生きづらい側の人間なので、楽に生きる方法を探して色んな本を読んだんだけどさ。

 わたしが「これだ!」って思ったもの全部、根底にあるのは同じ一つのメッセージだなって気づきはじめた。

「身体の自然に任せよ。」

 これなんじゃないかって思った。

 わたしのような感覚過敏、周りの世界が発する刺激も自分の中の感覚もものすごく繊細に全部感じ取ってしまう人間は、「身体の自然」のセンサーがものすごいんじゃないかって。

 だから、自分の身体が発する自然に沿って歩いて行けば、とんでもないところに、この身体がわたしを連れていってくれるんじゃないかと思って。

 つい最近、坂口恭平さんの「躁鬱大学」を読んでいて気づいた。

 わたしは「自分」というものが物凄くあるし、褒められたいっていうのがモチベになる感覚がわからなかったり、一人の時間大好きで人と過ごしたらその1.5倍ひとりの時間が必要だったり、ノリノリで何か作業をしていてもフツーに疲れたりするので、躁鬱人ではない気がするけど、それ以外の部分はすごく共感できたんだよね、この連載。とてもおすすめです。

 今自分がしたいことを自分に聞く。その連続でとりあえず生きていこうと思います。

 坂口さんは、そういう好き勝手やる生き方は躁鬱人の生存戦略だ、的なことを(その通りのことは言ってないかもしれません。わたしの解釈です、念のため)言っているのですが、わたしにとってもそうで。

 生存戦略ってどういうことかっていうと、好き勝手生きられないと、躁鬱人もわたしも死にたくなってしまうらしいんだよねどうも。

 わたしが昔から、「もっとちゃんとしなさい!」と言われては「ちゃんとするってことはわたしがわたしじゃなくなることなんだ、じゃあ死んだ方がマシだ」と泣いて「そういうことじゃない!」ってまた怒られるっていうのを繰り返してきた理由もここにあったんだなーと。

 好き勝手できないなんて生きててもしょうがないじゃん、みたいなやつ。

 それでやってみて、何が自分のところにやってくるのかにとても興味がある、というお話でした。

 しょうがないじゃん、ちゃんと考えて行動しようと思っても、途中で身体が動かなくなったりするんだもん。

 身体の具合がいい時は、普通の人がやる方法で頑張りはじめたりするんだよ。それで計画を立てたりする。でも、結局天気が悪い日とかが途中で来て、身体が動かなくて、ああわたしはやっぱりこうなんだ、って気づいて鬱になる。それをずっと繰り返してたし繰り返してる。どうしてか、普通の方法論を自分にもできるって思っちゃうんだよ。具合がいい時は。

 でもそうじゃない方がいいのかもね。元気な時だって自分の体に従った方がいいんだろうな。「挫折」しないために。

 挫折してたんじゃなくて、もともと立ててた計画が自分の身体に合ってなかったんだと思う。小康状態だからこそできることを毎日やろうとしたって、無理なんだよな。よく考えなくても。

 人が言ってる「やり方」は、大抵わたしの身体には合わないってことを理解しとかないといけないなーと実感している低気圧の時期です。
 君も身体に気をつけて。