誰もわたしを助けてくれなかった。
誰もわたしの傷を大ごとだと思ってくれなかった。
パンドラの箱を開けてそろそろ一週間が経つ。
ずっと向き合うことを避けてきた、自分の根幹の部分、もはや自分の人生を構成する全てになっていた部分を、
やっと大ごととして捉えて、言語化して、自分はそれを抱えているのだと自覚できるようになりました。
そんな景色、見るのはほんとうに初めてで、これから自分がどうなってしまうのか、どんな感情がこれから湧き起こってくるのか、予想もつきません。
少し怖いです。
今日も思い出したみたいに、「怖かった、辛かった、痛かった」という気持ちが湧いてきて撃沈しています。
こうしたことを今後も繰り返していくのでしょう。
20年の積み重ねです。
ちょっとやそっとで、この繰り返しが終わるわけがありません。
言い聞かせたり、宥めすかしたりして、今まではやってきてしまったけれど。
怖い、怖い、と言う自分の本音を黙らせて、いないことにして、やってきてしまったけれど、
これからは、もう何も「終わったこと」にしないで、
何度でも繰り返し「怖い」って自分に言わせてあげられるようにしていきたいな、って思っています。
3、4日前から日記をつけ始めました。
寝る前に、ピンク色のサインペンで、自分の本心の部分が言っていることをそのまま書くのです。
検閲せずにそのまま。
彼女はわたしの子どもの部分で、大人であるわたしのことを ” まま ” と呼んでいます。
大人のわたしは、
彼女の言うことを規制しないように、
彼女の頼みを、現実的には全て叶えられるわけではないけれど、叶えられないとしても「叶える約束」はしてあげられるように、
彼女が日記を書くのを見守ります。
「検閲せずにそのまま」なので、ひらがなが多かったり、文章としてはつながりや文法が不自然だったりもします。
でも、それが彼女のしたい言語表現なので、そこにも口を出さないようにしています。
そんなふうに、誰にも検閲されることなく、「自分の思ったまま」を書くなんて、わたしはそんな経験したことがなかったんですけど、これってみんなそうなんですかね?
自分の思ったことを書きなさい、って、ものすごく難しいんだな、って思いました。
学校で日記を連絡帳に書いて……みたいなことは、担任の先生によっては課されることもありましたが、
あれも書く習慣をつけるという点ではともかく、「思ったことを自由に」書ける状況ではないですよね……
かといって、誰かが書くことを教えないと、自分の思っていることを言葉で表現する方法って、そりゃ子ども一人の力では身につけるのも限界があるし……
もしわたしが子どもを育てることがあったら、思ったことを、誰にも忖度せずに言葉にする練習を、させてあげられないかなあ……って思います。
親として、だけでなく、先生として、とかでも良くて、立場によらず、子どもを診る立場になったら。
とにかくでも、誰にも検閲や評価をされずに、自分の思ったことを言葉という形で残す、そしてそれは後から見返せる、という体験は、とても心地よいものです。
今まで日記が続かなかったのって、本当に書きたいことを書けてなかったからかな、と思うぐらいには。
というか、多分それがあたりなのですが。
日記帳を買ってしまいました。
これであの子に、もっと良いノートに、思ったことを書いてもらえます。
彼女もとても喜んでいるみたいです。
これまでそのノートに書かれることは、あるいは、わたしの本音である彼女が言ってくることは、「本当はこうしたかった」とか、「本当はこれが悲しかった」とか、そういったことばかりでした。
でも今日、冒頭に書いたみたいに、怒りや憎しみや恨みといったドス黒い気持ちを彼女が表現し始めたのです。
自分でも気づけないぐらい一瞬の反応でしたが、大人のわたしはそれに驚き、天使のようなあの子がそんなことを言うはずがない、って思ってしまいました。
誰も私を助けてくれなかった。
誰も私の傷を大ごとだと思ってくれなかった。
誰も助けてくれないなら死ねばいいのに。
みんな死ねばいい。
そんな声を、わたしは掻き消そうとしました。
すぐ、これもピンクのサインペンなんだ、ということに気がついて、二重線を重ねようとした手を止めました。
ピンクのサインペンだって、いつだって愛に溢れた言葉を呟くはずもないのに。
ピンクのサインペンが、やっとわたしのことを信じて、これを日記に書いても良いって思えるようになってくれたのに、わたしはそれを裏切るのか。
そんなことは絶対にしたくない。
覚悟していたつもりでしたが、全然分かっていませんでした。
パンドラの箱を開けたら、綺麗ではいられなくなってしまうこと。
そういえば芸術家の岡本太郎は、「きれい」と「美しい」を区別し、「きれい」は八方美人だったり、表面が良い感じだったりといったニセモノ、「美しい」は、醜いけれども、生命の迸りそのもの、みたいなことを確か言っていたと思うんですが、わたしが今言いたかったのも、ここで言うところの「きれい」です。
誰かに対して、とても醜く映るわたしに、わたしはきっとなってしまうことでしょう。
でも、思い切ってこの箱を開けたのは、
もう誤魔化しきる気力も体力も無くなってしまったからというのと、
自分の根っこの部分に根を下ろして、そこから出てくるものをきっと見てみたかったからです。
それが、美しいもの、人を本能的に引きつけるもの、生命の迸り、であったなら、
わたしはきっとそれで良いと思います。
きれいであり続けようとしても、わたしの紙っぺらな体力と耐久力では、ちっとも保ちませんでした。
醜い自分を晒すこと、それはすごく怖いです。
でも、もう、もういい加減、偽っては限界がきて、のループを断ちたいから、
わたしは醜くなる覚悟を決めるのです。