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 結局のところ、自分で自分をコントロールしなければと思うこと……もっと言えば、「自分はコントロールできるものだ」と思うことが苦しさの元凶なのかもしれない。

 最近思うけれど、現代人にとって一番身近な自然とは、自分自身の身体と心なんじゃないだろうか。

「自然を大切に」なんて言うけれど、一番自分のそばにある自然(つまり身体や心)を理性(つまり頭)によってコントロールしよう、完全に支配下に置いて一挙手一投足制御しよう、なんて考えてはいないか。

「自分の身体を乗りこなす」なんて表現があるけれど、人間の身体も心も、自動車みたいに「物体としては完全に死んでいて、人間が動力を搭載して起動してひとつひとつ操縦してやらねばウンともスンとも言わず動かないもの」なわけじゃない。むしろ毎日毎日、立派に自分の流れを作って保ち続けている。乗り物は乗り物でも、身体や心は「生きている乗り物」なのだ。

 わたしは体調なんて天気や……もっとミクロに言えばその場の臭いなんかによってまったく変わってしまうし、感情も機嫌もめっちゃ波があるけれど、もはやその手綱を握ることは諦めた。
 諦めてしまったほうが、かえってわたしの精神衛生上は楽だった。普通になることよりも、わたしはこの身体と心に乗ったら何処へ連れて行ってもらえるのかを探求してみたいと思った。

 わたしは人に怒気を浴びせられたり(あるいは自分に向けての怒気でなくても「もらって」しまう)、価値観を押し付けられて相手の言う通りにしなければ解放されないような環境に追い込まれる(もしかしたらこれもわたしが思ってるだけかもしれない)とパニックになるので、そうならないように自分をコントロールして、状況を、事態をコントロールしようとしていたけれど、どれも完全にはできないし、そもそもたとえ誰かに怒られてでもやりたいことがある時点で、いつまでもパニックを避けるわけにもいかないと思い始めた。

 コントロールできるものじゃない、天気とか、災害とかみたいな自然と一緒で。

 そう思ったら、わたしがわたしを監視することも、「どうするべきだ」に捉われることも、いつも自分が正しい行いをしているのかと疑い続けることも、ほとんど意味がない。

 ルールを掲げてより良い自分になろうとすることは、結局のところわたしを縛っていた(この”自分で定めたルール”とうまい付き合い方ができる人もいる、すごい。わたしにはどうやったらそれができるのか全然わかんない!)し、それは単にコントロールしたいだけだったのだと思う。

 人類は昔から、何度も自然に打ちのめされてきた。それがトラウマになって、「あれ」が二度と起こらないようにするにはどうしたら良いんだろう、と考えた。理由を探して神話を作ったり、神の怒りを鎮めようと祈ったり、魔法や占いを使ったり、科学で対抗したり。
 それと近いことをわたしはしていたんだと思う。

 誰かに怒られて、意見を押し付けられて自分の声を封じられて、それがトラウマになった。だから「それ」が二度と怒らないように、良い子になろうとしたし、人の(特に偉い人の)顔色を伺えるようになったし、先読みの能力を磨いたし(敏感すぎる上に記憶力が妙に良いきらいがあるので、そこを使った)、自分の本音を隠して煙に巻く技を編み出し(相手が絶対に意味を取れないような電波発言をして「わからなくても良いよ」と言う”イカスミ作戦”、etc.)、いろいろなことを学んで自分を律するルールを作ってそれを守ろうとした(実はだいぶストレスだった)。

 でも、それらの事物……起きてしまうことも、自分の身体と心の変動も全て、自然……森羅万象と同じでコントロールできないことなんだろう。

 全てはわたしの責任ではないのだ。

 わたしは何も悪くなかったし、責められる必要も、努力する必要もなかったのだ。
「あれ」が起きたのはたまたまで、わたしが何か間違ったことをしたからではなかった。

 なーんだ。

 そうならそうともっと早く言ってくれよ。