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 ”悪しき理性”やエゴの働きは、持ち主にトラウマティックな出来事を繰り返させないことにあるのかもしれない。
 だから悪しき理性やエゴは、どんどん人間にルールを追加していく。個人の内部で起きていることのレベルからそうだ。

 かつてはその機構は、生存に非常に役に立つものだったに違いない。高度に発達した危機回避能力そのものだから。

 でも現代に生きる人間には、恐怖や危機を回避する以上に求めたいものがある。
 そこで、その理性やエゴが課したルールが縛りになり、「ここまでが安全」という境界が窮屈になってくる。

 わたしを長いこと苦しめていたのは、その窮屈なのだと思う。

 太陽の高さや湿度や空気の匂いで、情緒も、能率も、ひょっとしたら人格までもが変わってしまっているかもしれないぐらい、わたしの身体は野性を保っている。
 だから、トラウマ化とルール化っていう機構が働きやすい体質だったんじゃないか、
 だからトラウマティックなものを抱えやすかったんじゃないか、って、そんなふうに謎を解いた。

 トラウマとルールを抱えやすいと、その分窮屈にもなりやすい。
 反面、野性が強いということは縛られたくない気持ちや縛りを疑う気持ちも強いので、自らはみ出したくなる。そしてさらにトラウマを抱える……子ども時代に経験したのは、このループだったんだと思う。

 わたしはきっとこの野性をもっと信頼すべきだ。
 何があっても生き残れる気がする、感覚と直感を。
 暑い時期は鈍りやすいんだけどね。

 この羅針盤に沿って生きてみたら何が起こるんだろう。

 自分と二人っきりになるとき、
 静寂に耳を澄ますとき、
 要するに自然に対して意識を開くとき、わたしは野性の声を聞ける気がする。

 野性は、何があってもこの世界は更地だということを知っている。
 それでもどういうわけか生きていけるし、何でも作れるし、しかし作り上げたものや持っているものが価値ではないということも。
 なんかオースター的世界観だ。
 この感覚が奥底にあるから、オースターが好きなのかもしれない。

 動物だった頃や、呪術で世界を捉えていた頃に、「言祝ぎ」の時代に、意識を置いてみてもいいかもしれない。
 そこにわたしの本領がある気がする。

 人くさいわたしも好きだけどね。笑
 どっちにしたって、人間を生きることだと思う。
 野性と人情が絡み合った存在が人間だ。