藝大に一年ちょっと居てわたしが学んだのは、「アーティストって自己表現をする人」じゃなくて「アートを作る人」なんだな、ということです。
今更何言ってんの? って感じかもしれませんが。
なんだか、その「今更」に今更気がついてモヤモヤしている自分がいます。
それって「アーティスト」もただの職業とか役割とか肩書きの一つになっちゃってない?
それって窮屈じゃないの、ねえ。
現代アーティストの間には「アートってこうあるべきじゃないか?」っていう言説が溢れているけど、でもその全部に従う必要なんてなくて、それぞれの作家が「こうだ!」って思うものを選べばいいので、アーティストは自分の個性や創造性を発揮できる自由な職業である--と言える。
う~ん……
やっぱりなんだかモヤる。
なんていうか。
それじゃあ、結局仕事をしなきゃ愛されないんじゃん、アーティストだって。
それって他の職種と同じじゃん、
それはわたしのやりたいやつじゃないわ。
って思ったのよ。
ちょっと嫌だな、って思った。
確かに、仕事(勤労とはちょっと違う。仕事って「何をして生きていくか」そのもの)は人間にとって、その人の生き方や哲学を社会に刻む大切なものだよ。
けど、その仕事で作った作品を通してしか自分に触れてもらえないの、自分を見てもらえないの、想像したらゾッとしませんか。
遠い過去の作品が大切に保存されて今も残ってて、だからこそわたしたちはその作品を通して昔の人たちに思いを馳せることができる、それはとっても素晴らしいことだよ。でもさ。
現代アーティストってまだ生きてるじゃん。
まだ生きてる人と作品を通してしかコミュニケーションしないのってなんか、気持ち悪くない?
それって、仕事を介してしか人と会話できない社会人病と同じじゃない?
年齢、性別、出身地、学歴エトセトラの表面的な記号からしか話を膨らませられないのも同じ症状だね。
素朴に疑問。
アーティスト自身は愛されちゃいけないの?
作品は愛されていいのに?
作品が主で、アーティストはそれを作った/作る人に過ぎないの?
わたしはそんなの嫌だなあ。
それでもっと嫌なのはさあ。
「自分のままじゃ愛されない/聞いてもらえないから、自分の感じたことや言いたいことは作品にして愛してもらおう/聞いてもらおう」だよ。
「自分の代わりに作品を愛してもらおう」ってこと。
やめてやめて、そんなことないよう。
わたしもそれ、やってたけどさ、確かに作品にするとスッキリするし一種の癒しはあるから無駄ではないけどさ、自分の言葉としてもちゃんと語ろ。
自分のままじゃ愛されないなんて、聞いてもらえないなんて悲しいこと言うなよう!
自分で自分を諦めんなよう!!
それ、愛してくれないやつと聞いてくれない奴がおかしいだけだから。
言いたいことって、やっぱりさ、自分個人として叫ぶのを置き去りにしてたら、やっぱり不完全燃焼だよ。ほんとうのほんとうに届いてほしい相手に届かない。
自分の言葉と作品と、どっちかじゃ足りないよ。どっちもがいい。
作品の自立性--作品が作者の手を離れるからこそ羽ばたけるいろんな可能性があるのも、そうなんだろうなって思うけど、でも、なんか。
あんまりにも「自分」が置き去りになってる感じがして、ちょっと怖いよ。
わたしはそうはなれないし。
だからそういう気持ち悪いことにならないように、作品にはもっと「自分!」っていうのを出してみたいんだよね、わたし。
作品が自分の被創造物じゃなくて自分の一部分になるくらい。
自分の身体の一部!って言える作品だったらさ、それを見てもらうこと=自分を見てもらうことになって、「仕事内容でしか自分を見てもらえない……作品作れなかったらわたしはダメだ」から「仕事を使って(利用して)自分を愛してもらってる、ラッキー!」になれるんじゃないかって思うよ。
つまり、作品を介してしか自分を見てもらえなくても何も問題ないくらい、自分そのものな作品を作ればいいんじゃね? ってことが言いたいの。
まあ、具体的にどうするかはまだアイディア浮かんでこないけど。浮かぶまで待つしかない。来い!
これでめっちゃいいもの作れたらわたしまじかっこいい。美人で知的でセンスが良くてかっこいいとか最強のいきものになれる。うふふ。
アイディアさま
前略 お待ちしております。
草々