わたしはずっとみんなのお母さんだった。続・説明したくない話。

自分でやってくれ
喜ぶことも
悲しむことも
誰かに許可してもらうんじゃなくて。

できない?

知るかよ。

それはわたしに解決できる問題ではないな、少なくとも。

↑この記事の続き。

 もういつからなのか、どのくらいのケースがあったのかも曖昧だけど、小学校4年生くらいからかな、わたしはみんなの「理想のおかあさん」として人の話を聞いてあげることが多かった気がする。

 だから、普段は相手のことを何も否定せず、わたしの広い視野と柔軟な思考(熱い自画自賛)により相手の固定観念を相対化しつつ、共感もしつつ話を聞くんだけど、相手があんまりうじうじしてると物凄く突き放したことを言いたくなる。

 というパターンにやっと気がついた。

 そしてこれは、今のわたしの創作活動のスタイルとも全く同じだ。

 柔らかく包んで人の心を癒したり苦しみを昇華したりするものを作った後は、思い切り突き放したくなる。理解不能、もしくは怒りや恨みで。

 そうすることで主張したかったことは多分、いつもたった一つだ。

「わたしはお前のママじゃねえから。」

 だから、「私はこんなことをこの作品から感じてもいいんでしょうか?」「これはどう感じるのが正解なのでしょうか?」みたいな観客を想定すると、ウエエェッとなるのだ。

 そんなもん自分で決めてくれ。
 子どもみたいにお母さんの許可を求めないでくれ。
 そしてわたしはお前らのママじゃねえ。

 認めてくれ、許してくれ、という雰囲気を感じると、「そんなもんてめえで考えろよ。知るかよ。甘えんな。」って突き放したくなる。

 それはわたしが「わたしはずっと一人で決めて一人で頑張ってきたんだ……!」っていう突っ張りがあるからだと思っていたが、いや……そっちはダミーだったかもしれない。

 とにかく、「お母さん、認めて」っていう雰囲気がすごく気持ち悪く感じるのだ。

 もちろん、でも、人がその気持ちを抱えるに至るには、相当の傷つきや悲しみがある。
 わたしは絶対にそれを否定したり軽視したりしたくないしするつもりはない。
 ……でも。
 お母さんに満たしてもらえなかったものを、別の人間に求めると、とんでもないことになる。
 一言で言うと、重い。

 どんな人間でも、必ず限界が来る。
「お母さんみたいに」、「自分を満たしてくれない」時が来る。

 だから。
 お母さんに認めてもらいたかったものは、自分で大切にしてあげることが、やっぱり必要なんだと思う。

 他の人の助けを借りるなって意味じゃない。めちゃくちゃ借りるべき。借りまくったほうがいいと思う。

 でも、自分自身が自分自身に対する貢献率ゼロだったら、他人にどんなに認めてもらっても、それは。

 真ん中が埋まっていないから、根本的な解決になっていないと思う。

 いっとき、安らいだ気持ちになるだけだ。

 わたしは最近特に顕著だが、母と子のしんどい話を聞いても、子にだけ感情移入することができなくなっている。
「子のことももちろん助けたいけど、お母さんのことも助けたい。じゃないと解決にならない」と思っている。

 それはわたしがずっと「お母さんがしんどそう」と思いながら生きてきたからだと思っていたし、それも間違ってはいないが、
 それよりも多くを占める理由として、いつからかわたし自身が ” お母さん ” になっていたのだと思う。

 そして多分、その限界が
「表現活動をするときだけはわたしは ” お母さん ” になりたくない」になり(中高時代、女性合唱をやっていて、聖性や母性みたいなものを感じさせる歌を歌わなくちゃいけなかった時の気持ち悪さもある気がする)、
「もうわたしは ” お母さん ” になりたくない!!!!」に、今なっている。

 わたしの「説明したくなさ」は、なんと自分と母性の関係というあらぬところに結びついていたみたいだ。

 わたしは

 お前のママじゃない。

 

 だからわたしに認められようとしないでほしい。
 認めてほしいと思わないでほしい。

 そんな欲望をぶつけられても困る。

 だからわたしは説明しない。

 お前を突き放す。

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