ふつうになれなくて、立派な人になれなくて、理想を叶えられなくて、ずっとずっと苦しんできた。
どんなに「こうすべきだよ」って言われたって、わたしにはそれができないし、したくないから辛かった。
もうさ、人に「こうだよ」って教わったことよりも、自分自身の感じたことを信じて生きたいって思う。それが「多様性」だし「個性を尊重する社会」ってことじゃないかな、とも。
正しいことや善いことって、人から教えてもらうことが多いし、自分じゃなくても……っていうかわたしじゃない方ができることかもしれない。でも、「わたしが感じたこと」を感じるって、誰にも教えてもらえないし、今ここにいる「わたし」にしかできない。
替えが効かない。
それってすごいことじゃない?
自分の感じたように、生きたいように生きる方法、糸口を掴んだ気がするの。
自分の、「感情、感覚、感受性、感性、直感」の五つの「感」をに従うこと。
これが自分で自分の人生を好きなように生きていくために必要なことなんじゃないかな。
それでね、この五つの「感」は上にあげた「感情→感覚→感受性→感性→直感」の順番に開花していくみたい。
感情を否定すればそれ以降の4つが、感覚を否定すればそれ以降の3つがうまく働いてくれない、みたいな感じで。
面白いなと思ったので、1項目ずつ整理して書いてみます。
感情
わたし、人に強い感情(特に怒気や敵意)を向けられるのが尋常じゃないくらい怖かった。パニックになるから。だからずっと「わたしは人に怒りたくない」って、頑張って怒りの気持ちを散らそう、鎮めようとしてた。
でも本来、感情は人を傷つけるものではなくて、自分を導いてくれるものだし、物事を先に進めるエネルギーそのものなんだよね。例えば、不当な扱いを受けた時、「怒り」という感情を抱くからそのことに気がつくし、怒りのおかげで状況を変える力が湧く。あるいは悲しい時、思う存分思う泣きまくったら、自分の本心に気付けたり、もうこんな悲しい出来事終わらせようって思えたりする。
分かっちゃいるけど、怖いけどね。
感情とうまく付き合うって、感情を抑制してコントロールすることじゃないんじゃないかって気づいたんです。
感情は、起きた出来事が自分にとってどういうものなのか、自分はどうしたいのかを教えてくれる。それを否定したり無視したりせずに、「自分はこうしたいんだ」って受け止めるのが、「感情とうまく付き合う」ことなのかもって。
だから感情を押し殺すことは、自分らしく生きるために必要な根っこを枯らせること。せっかく現在位置と道を教えてくれてるコンパスを自らブン投げることに等しいのかもって。
わたしさ、知らないうちに--団体行動や「大人の対応」を学ぶうちに、「これぐらいで怒っちゃいけない」とか、「これぐらいで悲しんじゃいけない」とか、あるいは、「こういう時は感謝しなきゃ」とか、そんなことばっかり考えるようになってた。
でもさ、いつどんな時にどのように感じるかは、本来ぜんぶ自由なはずだよね。
感じちゃいけないことなんてないはず。
それこそが「わたし」だし。
自分の感情に、素直に、子どもみたいに従おうって思った。楽に生きたいから。
そしたら何が起こるのか、わたしは知りたい。
人を傷つける強い感情って、押し殺し続けて腐敗した感情=怨みなんだと思う。
押し殺した感情、溜め込んだ感情は、もともとそれが悲しみであっても怒りであっても愛情であっても喜びであっても、どんなものでも怨みになる。
「私が感情を表に出したら人を傷つける」と思ってたとき、確かにわたしの中身は表現し切れなかった悲しみと怒りと、「復讐してやりたい」ってほどの怨みでいっぱいだった。
怨みが溜まってるってどういう状態か。
怨みが漬物石みたいに、感情のカメ(甕。亀ではない)に蓋をするんですよ。感情が湧いても、上に積もった怨みが邪魔をして外に出すことなんて到底できない。
「どうせまた傷つけられるんだ!」って思うから、苦しいって言えなかった。悲しいって言えなかった。ふざけんなって言えなかった。そんな風に感じることすらいけないと思ってた。でも感じてしまうから、やっぱりそれも押し殺して、さらに怨みが溜まる負のループ。
そこで必要なのは、この怨みをどかすこと=つまり吐き出すことだった。
そんなことしたら人を傷つけてしまう、と思えるけど、でも、人は怨みを溜め込み続けることはできないから。自分から吐き出そうとしなくても、こらえ切れなくなれば爆発する。怨みの自然爆発は予測できない上に、本人が吐き出そうとして吐き出したものよりずっと殺傷能力が大きい。最たる例が犯罪とか、自傷とか、病気とかなんだと思います。
だから自然爆発させて人(自分自身も含む)を傷つけるより、自分から吐き出した方がいいんだと思う。どんなに醜くても、生理現象だから仕方ないよ。今まで我慢してきたぶん、遠慮なく感情のままに暴れたらいいと思う。気がすむまで。
でも、やっぱりちゃんと暴れ切れたのはつい最近だった。今までは腹が立つことがあっても、頭で考えて、「こう考えればいいんだ」「こうすればいいんだ」って知識で動いてたのね。でも、それじゃほんとうは不完全燃焼……どころか、感情を受け入れ切れてなかったことに気がついた。
ぜんぶ出し切ったら、今まで我慢してたこともこれからは我慢しないって肚が決まったし、またひとつ「わたしはわたしの望むようにできた」って自信がついた。
感情は、「一般的にどうか」や常識はともかく「私はこう感じる」「こう思う」「こうしたい」という「私」の輪郭を定めてくれる(教えてくれる)もの。
まずはこれが導き手になってくれる。
感覚
身体感覚や体質、身体の特性などをひっくるめて、わたしは便宜上こう呼んでいます。
単に身体感覚一つとっても、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の「五感(官)」だけでなく、温冷感覚、深部感覚、内臓感覚、周波数感覚、電磁波の感覚などなど、他にも様々な感覚が人間には備わってる。これらの感覚がどれくらい鋭いかや、得意な刺激と苦手な刺激は何か、どの感覚器官はよく効いてどの器官はそうでもないか、苦手な刺激にどれくらい晒されても平気か、その他いろいろ、みんなそれぞれ大きくも細かくも違っています。
他にも頭痛持ちとか、身体のここが不自由とか、すぐに疲れてしまうとか、むしろ非常に頑健であるとか、動き回るのが好きとか、子宮を持っているのか精囊を持っているのかとか、エトセトラ、それぞれいろんな特徴や属性を持っている。
だからそもそもみんなで一定の法則に従うこと自体無理があるのかも、ってわたしは考えました。
よく考えてみたら、人の身体はそれぞれ違うのに、「こんなことでしんどいって言っちゃいけない」「みんなはできてるのに」って悩むこと自体、ナンセンスだなって。
だって周りの人はともかく、わたしの身体はしんどいと感じてるし、みんなができてもわたしにできないことなんてあって当たり前。わたしは背が小さいから高いところに手は届かないし、努力で伸ばそうったってできなかったんだもの。それと同じじゃないですか。
努力で克服できることもあるだろうし、それを諦めろって言いたいわけじゃないけど、だから努力したければすればいいけれど、諦めた方が楽になることもたくさんある。だったら諦めたいこと、諦めるしかないことは諦めた方がいいじゃない。楽な方がいいじゃない。自分を壊してまで、嫌な思いしてまで努力して克服しようとするって、自傷行為と何が違うんだっけ?
「みんなみたいにうまくできなきゃ」って悩みは、「みんなと同じようにならなくちゃ」っていう悩みってことで、それって「自分でいちゃいけない」ってことじゃない? と思ったら、すごく怖くなった。
そんなの大量生産の工業品と変わらないじゃない。
わたし、感情を肯定して「ほんとうはこう感じる」「ほんとうはこうしたい」を感じられるようになると、思ってもみなかった「実はこれがきつい」「これが楽」に気がつけるようになった。
自分の快・不快や体質を改めて自覚できるようになったんです。
そうすると、今までうまく「ふつう」にやれなかった理由に名前がついて、整理ができて、安心できた。「そっか、自分はこれが苦手だったのか」「これだと快適だったのか」「自分はこういう体質だったのか」って。
そこで、「体質ならしょうがないな」って思えた。「変わろうとして苦しい」を抜け出せたの。
もちろん、自分の「ふつうじゃなさ」の正体を専門機関に診断してもらうのも大切なことだけど、わたし、まだ消化しきれていない悲しみや怒りやそれが変質した怨みを抱えまくっていた時に、ASDの診断を受けて、「結局ふつうになるために私が頑張んなきゃいけないってことでしょ!? もうそういうのやめてよ!!!」ってすごく辛かったことがあって。
うまくやれないこと、やれなかったことについての悲しさや辛さや傷つきや怒りや寂しさやエトセトラが消化できてないうちに、「あなたはこういう傾向にあります、だからこうしましょう」って杓子定規に言われてもさ、悲しいじゃん。ものすごい孤独を感じるじゃん。「結局何かできるようにならなきゃいけないんだぁ」って思うじゃん。「もうそんなに頑張れないよ」って。
いっぱい、過去の辛かったこと、今の辛いことをちゃんと「辛かった/辛い」って感じられるようになって、悲しい時は悲しんでいいんだ、苦しい時は苦しいって言っていいんだ、ムカつく時は怒っていいんだ、って思えるようにちょっとはなったと思う。
そしたら、自分の感じることや欲求を肯定できるようになってきて、開き直れるようになりつつある……かな。
自分の身体が訴えてくるものを否定しなくなると、「自分はただ在ればいい」っていうほんとの意味がわかるようになりました。
それを続けていくと、「価値を提供しなきゃいけない」とか、「〇〇ができるから私はここにいてもいい」っていう概念から、ちょっとずつだけど離れていける気がする。
自分の身体が快適であることって、「自分らしく」生きるための必要条件だと思う。ほかでもない「わたし」を構成するものの中でもめちゃくちゃ大きい部分が、この持って生まれた身体だから。
乗り物に乗って冒険するのに、乗り物の都合を考えないで走らせようとしたって、道が険しくなるだけじゃない?
苦痛も快楽も、この身体でしか感じられない。だったらこの身体に従って、感じて、選んでみたい。
それが生きることかなって。
感受性と感性と直感についても、まとまったら「その2」として書きます。
読んでいただいてありがとうございました。
ういでした!