楽器、絵、ダンス、あと勉強もかな。
これらはわたしの、やりたいことでもあったのに、うまくできないからって、頑張るのも辛いから考えるのも辛くて、「できなくていいや」って置いてきたことだったの。
どれも、自分に合ったやり方が分からなくて、
なのに「自分に合ったやり方が分からない」って言っても「そんなこと言う暇があったらとにかくやれ、量をこなせ」みたいに言われてさ。
その暑苦しさが大嫌いだった。
勉強も、勉強自体に苦労したことはなかった。
でも、「もっと頑張ればもっとできるのに」とか、「もっと上に行けるのに」とか、「目標は高く」とかさ、1日何時間勉強して志望校に受かる!とかさ、暑苦しい、煩わしい、煩い、ウザい。
だから、「『できない』を『できる』にするなんて、興味ありません」って言うしかなかった。
「苦手を克服」なんて言葉、大嫌い。
克服なんかできるわけないじゃんって思ってた。
本当はできるようになりたかったよ。
それに、頑張ってないわけじゃなかった。
頑張っても頑張ってもできないの、だからそれって努力の仕方を間違えてるんだなって聡いわたしは気付くじゃん、
だから「自分に合ったやり方が分からない」っていう至極真っ当で生産的な問題意識を持つのに、
周りから返ってくる答えがとことん思考放棄の産物なんだもん、
しかもそれをとてもわかってますみたいな顔で言うんだもん、
どんだけ未熟か経験不足かもしくは無自覚なの、ペッッッッ!!!!!(,,゚Д゚) ≡ 、、、、
あるいはさ、「とにかくや」って、「量をこなし」て、結果が出たってことは何か気づきがあったってことなんじゃないのかな、それを言葉にするのを怠りすぎじゃない????
もったいない……
それを言葉にしておけば、似たようなことをしなきゃいけないとき「量をこなす」を大幅にショートカットできると思うんだけど。
わたしはその部分をもっと知りたかったなぁ。
ショートカット云々だけじゃなくてさ、
そこに、人間の魅力と独自性と生き様が詰まってると思うんだけどなあ。
楽器は教えてもらえたけど、楽器を弾くことはどうして/どのように面白いのか、楽器を弾くことや音楽を演奏することについてどう思ってるのか、もっと先生の生の言葉を聞いてみたかった(教えてくれた先生たちもいる。素敵だった!)。
絵も、ダンスも、勉強も同じ。
わたしはそれをやってる人の、それをやったことによって培われた哲学ごと全てを吸収したかった。
そうじゃなきゃ面白くない……とまでは言わないけど、そうしたら最高に面白いから。
技術って、それを習得して、それとともに生きてきた人の人生とか哲学とか感情の動き/推移とか、そういうものがくっついてくるからなお楽しいんじゃないのかな。
と、リベラルアーツ大好きな文化人の卵はそう思うのですが。
あと、ちょっと話変わるけど、
そもそもさぁ、「一生懸命にやる」とか「努力する」とかも、わざわざ言うのってなんなの?
わたしからしたら一生懸命にやらない方法の方がわかんないわ。
やりたいことには一生懸命に決まってるじゃん。
他のことで頭がいっぱいで集中できない時はたくさんあったけどさ。
多分、楽器(と楽譜・ソルフェ)、絵、ダンスに関しては周りの目が気になりすぎて練習に集中できてなかったと思う。はぁ……
その時も、どうして集中できないのかを整理したかったし、解決したかった。
まあしょうがないよね、当時は子どもだったから。
一生懸命って楽しいんだよ。
頑張るって苦しむことだと思ってた、
自分に負荷をかけることだと思ってた、
だからやりたい奴の気がしれないって思ってた。
まぁそれは今も思う。
楽しく、楽にできることが一番良いって思う。
その考えでいくと、わたしは楽しいことしか「為せて」こなくて、
苦しみが報われたことなんて一つもなかったから(誰が「報われてるじゃん」と言ったところで、疲れすぎて何も嬉しくなかったから自分的には報われてないことになる)、
やっぱり努力なんてするもんか、苦手を克服なんてするもんかって思ってた。
でも、わたしは、「努力しない」をしたことの方がなかったのかもしれない。
つまりね、何が言いたいかっていうと、
もう諦めるのもやめようって思ったってこと。
「できなくてもいい」「でもできるようになりたい」そのどちらも実行しようってこと。
つまり、焦らずできるようになってみようって。
楽器も、絵も、ダンス、それから勉強でちゃんと上を目指すこと。
もちろんこれに加えて、既にある程度はできると思ってることたちも全部。
「モノにする」=「自分のものにする」=習得する、っていうのはさ、
誰かの決めた基準を満たすことでもなく、
何ヶ月練習すればできたことになる、みたいな話でもなく、
その技術とともに歳月を過ごすことだし、
その技術とともに生きる経験を、自分の身体を通過させることなんだ。
食べるのと一緒かもしれない。
大きな、大きな食べ物を、1年も2年もかけて、色んな工夫をしながら消化していく。
自分の一部にしていく。でもそれは所有とも少し違って、自分の身体を通過することが一部になるということ。
でも食べ物と違って、習得したい技術というものは腐らない。
ずっとそこにあって、わたしを待っていてくれる。
待っていてくれた。
何度諦めても、背を向けても、嫌いになっても。
そして食べ尽くす時も来ない。
無尽蔵の豊かさがそこにはある。
その豊かさは、まさしく先人たちが残してきた無限。
「1年も2年も」って書いたけど、その程度の歳月で食べられるのは、本当はほんの一部分でしかなくて、
技術っていうのはだから、枯れない水で、無限のパイなんだね。
できなきゃいけない、って思ってたとき、できるようになる努力はひたすら苦痛だった。
練習してる最中に感じることは、焦りと自己否定ばかりだった。
まだこんなにできてない、こんなに自分は欠けている、って。
これからは、そんな努力はやめだ。
できるようになる努力とは、その技術とともに暮らすこと。
「そんなになんでも自分でできなくていい」って言葉があるでしょ?
わたしも、だから、諦めようとしてた部分もあるんだけど(この言葉のせいではない。わたしが自分の拗ねのために金言を使ってしまっていただけ)。
でも、わたしの「できるようになりたい」は、誰も頼れないからっていう……部分もあったけど、それももう今は手放したから、
そしたらね、「何でもかんでも経験したい」からだったってことがわかったよ。
絵を描く人の目はどんな目なのか。手はどんな手なのか。
楽器を弾く人の身体はどんな身体か。
ダンスする人の身体は?
とても博学な専門家の頭の中はどうなっているんだろう。
その技術を持って生きるって、どんなに楽しい時間を過ごせちゃうんだろう。
それを知りたい。
経験したい。
そんな、純粋な欲望だったの。
つまり好奇心だね。
いいじゃない、なんだってできるようになってやろう。
だからね、これからはちゃんと、苦手意識のあることも、得意だって思うことも、
自分が何かの技術と関わって経験したことも全て、このブログに書いていきたいって思う。
常にわたしは何かを感じているし考えているし、それは言語化したらかなり面白いことなのにさ、まだまだ全然言語化してなかったなって、今日も歌の練習をしながら気づいた。
もったいなっっっっ!!!!
世界的な損失よそれ。(いつもの自意識過剰)
そんなふうに言語化してないことがたくさんあるのに、
いや、だからこそ、なのかな、
うん、言語化してないだけで本当は知ってることも考えてることも勘付いてることも閃いてることもいーーーっぱいあるのに、
言語化してないからそれらが「ある」ってことを自覚できなくて、
「自分にはない、ない」「自分は何もできない」「何も知らない」「めっちゃへなちょこ」って思い込んじゃうんだなってわかった。
それでさ、自分の外側のすごそうな人を見て、落ち込んだり怯んだり「自分にはない」「自分はできない」「めっちゃへなちょこ」に拍車がかかるんだよね……
いやいやいやいや、気付いてないだけでいっぱいあるじゃんっっっ!!!!っていう。
言語化を、より精細に……というか、閃きや気づきや感覚をすくう網の目をもっと細かくして、些細なこととかこれは書かないでおこうとか思わずに、どんどん書いていきたいな。
手が追いつかなくなりそうだけどね🙄
ああ、あれだ、自分のトラウマや我慢してきたことを書くのが、つまり膿みを出すのが今までは緊急要件だったから、「技術と暮らして思うこと」とかを書く段階じゃなかったんだな。
また一つ先に進んだのかもしれない。
もちろん、落ち込んだり思い出したり自分の中に巣食っているものに気付いたりしたら、これからも過去のこととかトラウマとかもろもろも書くけどね!😌
えっと、終わりです。
今回はだいぶテンション高いブログになりました。
「諦めなくてもいいんだ!」「自分のやり方で理想を目指せば辛くなく夢を叶えられるかも!」って思えたので、興奮してますので。
それだけ「できないことをできるようになる」って、わたしのなかで「不可能」「辛すぎてわたしにはできない」「どんな体力があればそんなことができるの……?」案件だったんです。
でも、もしかしたらわたしにもできるかも?って、初めて思えるようになってきて。
どんな時でも自分でいれば、自分のやり方は絶対見つかるし、
自分のやり方でやれば、絶対に結果は出る。
そう信じられています。
諦めなくていいんだ。
やったぁ。