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痛さと芸術性は紙一重。

痛さは演技しているものを自分のものにしきれていないところから出てくるんじゃないか。

 

こうありたいっていう自意識、エゴ、印象をコントロールしようとする必死さが人に伝わってしまって、なんだか見ていて居た堪れない気持ちにさせるのかも。

誰だってなりたい自分になるためや獲得したい技術を得るためには、まずできる人を真似る必要があるから、痛い人になりたくないと思ったら新しいことを学ぶのにかなり障害が出てくることになる。

でも、ある程度まで真似ることを続けても痛さが抜けない場合は、本心では納得できていないことをなぞっているからなんだろうね。本人が自覚できているといないとに関わらず。

その真似てる対象と本来の自分とのギャップ--痛さの根っこにあるもの--こそが、人の真似から自分のやり方を生み出すための種であって、ということは自分の痛さに気づくことは急成長するための鍵でしかねえな。

 

こう見られたい、ああなりたい、こんな自分でいたい、あんなふうに自分もなりたい、そういうふうに集めてきたもののつぎはぎを、わたしたちは最初は着て、
でもそれをずっと着ているうちに、つぎはぎだった色んな布が有機的に繋がってきて、気づいたら継ぎ目のない天衣無縫な自分だけの服になってる。

そんなふうに人間はできていくのかもしれない。

 

言葉だって知識だって経験だって、人との関わりの中で知るか、人から聞いて与えられてくるものばかり、つまり最初は自分の外部にあったものばかりなのに、それが自分に馴染んでくるわけだから。

 

新しいものと出会って、それが自分に馴染んでいく感覚って、時に葛藤や苦戦を強いられることもあるけど、やっぱり楽しくてやめられないな。

 

人はみんなそれぞれ、その人にしか寄せ集められないものを寄せ集めていて、それによって出来上がっているから、めっちゃ面白い。

一見何の関係もない物事と物事や、一見完全に矛盾しているような一面と一面が、その人の人生・人格の元に、何の矛盾もなくごく自然に交差して結びついてる。