つよくなりたかった。
自分一人でどこでも生きていける人になりたかった。
小学4年生の時、学校に行けなくなって、「ああ、わたしはもう自分で生きていくしかないのかもしれない」って思った。
どこか組織に属することはできないかもしれないって。
人の言うことを聞けず、気にしないこともできず、周りと同じことをするのも辛かった。
絶対間違っている気がしたし、それをやってしまうと倫理観に悖ることをしているような気がした。自分の倫理観に。
大袈裟だけど、「あーこうやってみんなが正しいと思う方向になんとなくみんなが流れていった結果この国は戦争になだれこんで行ったのではー?」とすら思っていたし、今も思っている。
そんなんだから、自分の快・不快+倫理観に合うかどうかという基準を満たさなければ何かをすることができないわけで。そりゃ組織の中でやっていくこともできなければ、チームプレイすら怪しいかもしれない。そんな自分に気付いていたから、実はチームプレイするときは自分を消してチームに奉仕する勢いでチームプレイやろうとしてたし事実そうだったからリーダー的な役割とか任されたり「ういちゃんがやってくれるからいけるでしょ」みたいな立ち位置になっちゃったりしてたんだけどそれはまた別の話。
だからつまり、倫理観のせいで両極端なんだと思う。孤高か、奉仕者か。で、実際わたしにはどちらの性質もあるから、「孤高な奉仕者」になるのが一番いい。だって奉仕だって、自分が認めてない奉仕のやり方には納得できないし、納得できないからやらないわけだしね。どんな人助けもできるわけじゃないし、どんな人でも助けたいわけじゃない。
という、なんつーかこう、デカい視点をもってはいるわけだけど、現実の方はちみって感じで。
でもまあ、こんなデカい口を叩くし見てる世界が篤志家みたいな人間もいるよっていう。
この世界観のデカさ、自分の今の身の程に合ってなくてほんっと恥ずかしいなって思うけど、理想の高さや夢のでっかさはもう、昔から拭いきれないわたしの本質みたいなとこだから、折れるわけにも諦めるわけにもいかないんだぁ。
それをやっちゃうとね、自分を殺す道を選ぶことになる。
「だめだ、諦めなくちゃ」って。
それはわたしにとって開放ではなくて、自分の大事な部分を捨て去ってしまうことなんだ。
自分の心に従うことって、何でこんなに辛くてしんどいんだろう。
でも、従わないこともまた、辛くてしんどい。
どうせ辛くてしんどいなら、自分のためにしんどい方を選びたい。
自分に従ってしんどいほうが、他人に従うことなんかより断然マシ。
自分が何者でもないことに、このさき何者かになれるのかな?ってところに、不安と期待を抱いています。
