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 わたしに代弁なんてできるんだろうか。

 

 また一つ特大の拗ねを見つけてしまった。

 

「こんなの絶対おかしい、火を見るより明らか」だと思って、小学生の時、わたしは学校に行かなくなった。
 不登校には色々な理由や事情があるが、わたしの場合は学校の居心地が悪いとか、友達といろいろあったとか、まあその辺もあったんだけど、抗議としても行かなかった。
 先生の言うことが、とても皮相で、現状保存的で、革新的なところが一つもなく、かといって保守をするのだという信念も感じない、場当たり的でふわっとしている、従う価値のないものにしか思えなかった。
 そう感じない周囲のことも信じられなかった。

↑この記事も合わせて読むとわたしの言いたいことがわかりやすいかも……? わたしわかりにくいってよく言われるからさ。(しょうがないじゃんすげー複雑なこと考えてんだから。わたしがわかりにくいんじゃなくておまえがバカなんだよちゃんと考えろよって思っちゃうけど。わかりやすさに配慮してたら紋切り型しか言えなくなっちゃうだろうが。それにむかついてるしそれじゃだめじゃんって話をしてんだよわたしは)
バカとか言ってごめん、合わせて読んでもらえるとわかりやすいかもです。

 当然だけど、当時は子どもだったので、そんなことも説明できなかった。
 当時の記憶はもう曖昧で(あまりにしんどい環境だったため「しんどい」という茫漠なイメージしか残っていない)(それに、どんな言葉を使おうが、そもそもその言葉に当てはまるような思想すら抱いたことがない人には伝わらないのだ……)、自分がどんな言葉を使ったかはあんまり覚えていないんだけど、呆れ果てて言葉もなかったという感じだ。
 どんな言葉で説明しようが、そんなもんは些末なものでしかなく。
 根本にあるのは某5歳児のように「ボーーーーーーーッと生きてんじゃねええええええええよ!!!!!」というやつだった。

 あんまりにもボーッと生きてる連中しかいないので、わたしはボキっと折れてしまっていたようだ。
 今の今まで気づかなかったが。
 私立の中高一貫に通うようになってからは、周りの言うことに従ってみたけれど、そこの文化も意識高い言葉を使ってボーッと生きてるだけだったので、やっぱり窮屈な上に肌に合わなかった。

 やっぱり、この社会がどのような仕組みで作られているのか、
 理不尽はなぜ生み出されてしまうのか、
 それを覆す方法は何なのか、という、
 自分たちを自分たちで守るための、牙になる考え、
 そういうものを誰も持っていなかったのである。

 何だ???? 生存意欲がないのか????

 あまつさえ、「面倒見てやってんだから従え」「面倒見てもらってんだから従うべきだ」みたいなことすら言う奴もいる始末だ。

 ……は?
 お互いに面倒をある種見合うのが社会だと思うけど、じゃあそれって相手に従うことなわけ????
 交渉って知ってる?????
 恩で物事が解決すんならこの世に民事訴訟はいらなくない????

 自分のために戦うということを、誰も知らない。

 じゃあ自分を守ってくれるはずだった存在が、ただ自分に言うことを聞かせたいだけなんじゃね?って思えた時、どうすればいいのか。

 だからわたしは教室から離脱した。
 逃げたと思ってたけど違った。
 孤独にストライキを起こしていた。
「お前たちの学校とやらなぞ、わたしには必要ないどころか、害悪だ」と行動で示した。
 人を味方にすることは、ついぞできなかったけど。

 

 そうやってわたしは、わたしの味方に誰もなってくれないことが当然である、として、そこから十数年生きていたみたいだ。

 人に共感してもらってもちっとも嬉しくなく、「で、あんたはあたしに何をしてくれるわけ??? 口だけ、心だけ共感するなんて誰にでもできるんだよね、でもそれで何か現実が変わるわけ???? わたしだけじゃなくてわたしのように苦しんでいる子はいっぱいいるわけなんだけど、その子たちのことも含めて救えるのって行動しかないわけなんだけど、共感ってじゃあその状況で一体何の役に立つわけ?????」としか思わないのも、そのせいである。

 一緒に戦ってくれるわけ?????
 誰も一緒に戦ってくんなかったじゃん、笑わせんなよ。

 わたしはそんな失望を抱え、「もう知らない。社会なんて知ったことか」って、プイッてしていた。
「社会は変わらないかもしれない。でもわたしは絶対幸せになってやる」って。

 でも、もしかすると、これがわたしの役割なのかな?

 こんなにも憤懣やるかたない気持ちを持っていて、
 それが自分の人生にがっつり食い込んでいて、
 だからこそ個人的なストーリーからいろんなことを話せて、
 もしかするとそれで人にも影響を与えられるかもしれない?

 わたしはもしかすると、社会を変えようとすることから、ずっと逃げていた?

 それだけ、ずっと過去に、不登校時代に、挫折していた???

 そう、だったのかもしれない。

 

 わたしは、不登校でも自分が幸せならいい、病まずに幸福に過ごせればいい、とか思おうとしていたけど、本当はそんなんじゃなかった。
 こんなのシステムがおかしいよってずっと思い続けていたし、
 それを変えたいって思っていたのに、
「変えたい」に本気になることを自分に許せていなかった。

 社会は変わらない、他人は変わらない。そんなことを追いかけても傷つくだけ。
 って、必死に自分にブレーキをかけていた。

 確かに、社会が変わるまで、他人が変わるまで、自分はずっと不幸だ、みたいに思っちゃうのはすげーー不幸だと思うのね。わたしもそれは嫌。

 他人が変わらなくても幸せを感じる方法はある。それはそれで大事。
 ってかそれがないとわたしは次の瞬間病んじゃうから。
 それで、その、自分で自分を満たすっていうかな、そっちのスキルは、高3の夏から今までで……そっかぁ、4年かかったのか、4年でだいぶ上手くなってきたと思う。

 でもさ、「社会を変えたいって本気で思いすぎちゃダメ」って、自分にブレーキをかけてたことに気づいたの。

 そのブレーキはわたしにとって大事なブレーキだったと思うんだ。
 だってわたし、他人のためになんか欠片も頑張りたくないもん。
 ってゆーか、他人のために頑張るとブチ切れ侍の恨みの塊女になっちゃうから。
「……あれ? っつーかなんでわたしがあんたのために頑張んなきゃいけないの???」って、自分でそうしたくせにキレ始めるから。

 だから、自分で自分を満たすこともできて、しんどくない頑張り方ができるようになって、「人のため」とか全然自分に向いてないってことがわかった今だからこそ、

 自分のために、
 過去の自分に報いるために、
 自分みたいな子のために、
 社会に働きかけることをもっとやりたい。

 

 そう思った時、わたしを堰き止めていた何かが一つパーンと弾けて虹色に淡く輝く光の粒になって解放された気がした(最近ホロウナイトやってるからそれに影響されてる。ホロウナイトはいいぞ。難しいけど世界観が良くて達成感がめっちゃ味わえるアクションゲームだぞ。ダイマ)。

 

 わたしは今まで、自分の作品をわかりやすくすることや、人に伝えることを怖がってきた。

 消費されたくなかったから。

 頭の中に、小学校の時からずーーっと感じてきた「ボーッと生きてる奴ら」がもわもわもわんと現れて、
 皮相な解釈であれこれ言って、
 束の間の感動とやらをして、
 あっという間に忘れるんだと思うと、せめて「理解不能」であってほしかった。

 人生の中に現れた、説明も何もされないひっかかり。
 永遠の謎。
 味わい尽くすことも、捉え尽くすこともできないが故にしこりとして残り続けるもの。
 せめてそういうものになりたかった。

 どうせ理解できねえだろ、と思ったし、
 理解できねえものに降伏しろ。と思った。

 降伏して、理解しようとあらゆる努力をしろ。
 自分の頭でちゃんと考えろ。

 いつでも誰かがわかりやすい正解を与えてくれると思ってんなよ、甘ったれが。

 と。

 だから説明もしない。わかりやすくもしない。
 それは更なる思考停止を呼ぶだけだから。

 別にその考えが全くなくなったわけじゃない。
 ただ、「わかりやすくちゃダメ」という縛りが外れただけだ。

 

 言葉は正しく伝わらない、
 意図は正しく伝わらない、
 メタファーも時には婉曲すぎて響かないことがあるのなら、
 直接的な表現を刺すことだって、そりゃ優雅じゃないだろうが、必要な時もあるね。

 

 わたしはね、芸術家だから、優雅さにこだわりたかったよ。

 でも今の日本の状況を見て、そんなわたし個人のなりふりに構ってる暇もねえなって目が覚めました。

 とはいえ、象徴的な世界とかもやっぱり好きなんで、作風を変えるっていうよりは、作風が広がったってことで理解してよね。

 

 ここで冒頭の問いに答えます。
「わたしに代弁なんてできるんだろうか」ってやつね。

 わたしは、代弁はできないし、しません。
 自分のため、過去の自分のため、自分みたいな子のためにしか頑張れない(頑張ると人を恨んでヤバいことになる)から。

 でも、代表して自分の話をすることはできるかも。

 あくまでわたし個人の話だけど、誰にでも当てはまるなんてわけじゃないけど、
 わたし個人の話をすることが、何かの役に立ったり、何かの原動力になるなら、自分語りを遠慮してる場合じゃないね。

 

 ふふふ、実はね、「自分語りが誰かの力になる」系にも拗ねてました。

 だって、「わたしみたいな子・人の力になれば」なんて生温すぎるんだもん。
 ぬるま湯。
 それって共感ベースっぽくて嫌いな感じなんだもん。
 そんな柔らかい感じいらないわ。

 生きるか死ぬかがかかってるんだもん。
 周りに潰されて自分を圧し「殺す」か、自分を貫くかが。
 ずっとそうやって生きてきたんだもん。
 尖り続けて。

 わたしが欲しいのは共感じゃなくて力。
 現実を動かす力。
 他人を癒したいわけでもなければ、力を「与えたい」わけでもない。

 わたしが尖ったまま幸せに拡大して生きていけるところを見せられれば、
「こんな社会でも生きてたらいいことあるかも」って思える人が出てくるんじゃないかって、
 わたしが目指すのはそれだけ。

 わかりにくくなっちゃったけど要するに、
 わたしの目標に、
 ・わたしが幸せになる
 だけじゃなくて
 ・わたしのために社会を変える
 が追加されたということです。

 わたしが日の目を見ないなんて社会が間違ってるもん。
 わたしの好きなように変えてやりたいし、
 それによってもっと生きやすい人が増えれば御の字。みたいな。

 だから社会運動みたいなことをしたいってことではあるけど……自分本位を捨てるわけではないので、活動家にはなれないな。

 そんな感じ。

 もっと傲岸不遜になるべきだったね。何を慎ましやかにしてたんだか。
 勝手に建国して女帝を名乗るような女なのにね。

 

 だからこれからはガンガン自分の話をするし、
 作品でも直接的な表現もするかな?
 もっと人に影響力を与えていきたいって、やっと思えるようになりました。

 

 残念ながら、わたしからすると大多数は愚民どものようだ。

 でもそれはわたしの責任だよね。
 わたしが今まで旗を振ってこなかったんだから。

 

 いまわたしの頭の中には、あの有名なドラクロアの絵が浮かんでいます。

 

 もう一度だけ、いや別に一度って何を以て数えんのかもわかんないし何を最後と決めるつもりもないんだが、
「てめえら何でわからねえんだよ!!!!!!!!!!」
 って鼻っ面をぶん殴るようなことをしてもいいだろう。

 勝手に絶望して昔辞めちゃったことを、今また始めてもいいよね。

 

「社会を変えたい」って思うことを、自分に許していいんだってこと、
 今までずっとそこに拗ねてきたことに、わたしはやっと気づくことができました。