わたしは子どもの頃から、絶望したり不安になったりしやすい子だったし、映画や舞台を見て悲しいシーンや怖いシーンで号泣してその後も後を引きがちな子だった。
だから、自分の感情の質量のヤバさにはいつも辟易としていて。
だから、音楽も映画も、情緒がどっと崩れてしまいそうだから聴かないでおく、観ないでおく、っていうこともかなり多いの。
自分の精神状況がどうなっちゃうのか不安だから。
オタクの言葉で言うと「つらい」「しんどい」になってしまうから。
それで恋煩いみたいに何も手につかない……とまではいかないけどそこまで行っちゃいそうなぐらい感動しちゃったりする(その感動をどっかに逃さないと動けなくなるから、エネルギー放出のために音楽を作る、というのが真相なんだけど)。
だから、しばらく音楽を聴き込むことから離れる、みたいなことがあったりする。
……でも、よく考えたらそれって、うすうす、自分のメンタルが張り詰めてて頑張ってて、だからここにエモかったり優しかったりする刺激を与えると決壊するってわかってたからそうしてたのかも。
ここで止まっちゃいけない、弱っちゃいけない、崩れちゃいけない、泣いちゃいけない、ってね。
本当は泣き虫だし、でも泣いたらスキッと前を向ける人間なのに、よくわからないセルフ鬼教官っぷりをここでも発揮してしまっていたみたいだ。
理由なんてあってもなくても、その理由が正当だろうが不当だろうが(本当は感情に正当も不当も無いし)、ちゃんと立ち止まって泣くなり落ち込むなり、ゆっくりじわーっと味わえばいいのに、何かで気を紛らわせて身体を硬くしちゃっていた。
ちゃんと落ち込めばよかったのに。「宵部憂」って、「ちゃんと落ち込む時間大事だよ」って意味を込めて付けた名前なのに。
そういう感情のあったかさみたいなものから離れる時間が長いと、自分が冷たく硬く乾いていくのがわかってね。
自分が何をしたいのかわかんなくなるし、生きてる甲斐って何かなとか、わたしが生きてきたことやこれから生きてくことって何かになるのかなとか、なんで何にもなってないんだろうとか思い始めてしまう。
生きてるって何だろう?みたいに。
不安になる。虚無感に襲われる。
それで人からの評価や承認や物質的な充足(を求めること自体は悪いことでも間違ったことでもない、でも自分を満たす前にそっちを求めるのは違う)が欲しくなって迷走しそうになったり。実際に迷走したり。
でもわたしは本当は気づいていたんだよね。
充実した人生って感情豊かな人生だってこと。
一瞬一瞬を感情豊かに生きられれば、それこそが豊かさで、わたしが目指したい人生ってそれなんだって。
で、そんなの「目指す」とかじゃなくて、今や一瞬次の瞬間から自分で切り替えることができるものじゃん。
だって自分で感情を大切に、全力で感じ切るぞ!って決めればいいんだから。
でもわたしは自分の感情の深さとか重さに怯んで、そっちに近づかないようにしていたのね。
でも、わたしの中から湧いてくる無尽蔵の豊かさ、全ての源になるもの、想像力と創造力そのもの、って、この感情の大きさに潜りきった先にしかないなって。先っていうか、この深くて重い奔流こそが「それ」なんだ、って。
感受性をある程度麻痺させないと人は社会の中で生きていくのしんどすぎるから、みたいなことを某春樹氏が言っていたような気がするけど、そしてわたしも知らず知らずのうちにそう考えて自分の感情をフラットにしようとしちゃってたけど、うーん間違ってるよその「社会」は。別の場所で生きられる道があるはず。
自分の波を乗りこなすって、女の身体を生きるのに必須スキルだけど、「本当だったら波はない方がいい、けどあるから乗りこなそう」じゃないってこともわかった(極論「本当だったら波はない方がいいけど〜」だったら女の身体捨てたいんですけど!!!って話じゃん、でもそういう結論になるってことは前提が間違ってるんだよ、波こそが何かの源ってこと)。
波を無くそうとしちゃダメだ。正しく起こしてあげるぐらいの気持ちでいないと。
ということでエモに浸ろうと思います。