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 わかったの。
 最近音楽を作るのが怖くなってしまっていた理由。
 辛くなってしまっていた理由。
 割りに合わないと感じてしまっていた理由。

 もっと拡大したいと思ったとき、いらないものを捨てようとした。
 でも、その捨て方が間違っていた。

 その捨てようとしたものっていうのはね、音楽コンプレックス。

 楽器ができない自分を隠そうとすること。

 

 音楽やるなら楽器が弾けなきゃいけません、
 楽譜が読めなきゃいけません、
 ソルフェができなきゃいけません、って、思い込んでた。

 それに、わたしの周りには楽器弾けないけどロックやってる人がいなかったから。
 ロックやるなら楽器が弾けなきゃいけないって思ってた。

 だから、打ち込みである自分の音楽を恥じた。
 隠さなきゃと思った。

 打ち込み音源で作ってるロックなんてって思った。

 隠そうと必死になった。

 打ち込みっぽい全てを隠そうと必死になった。

 でも、わたしがやりたくて、しかも、身体を楽にできる、自分にぴったりの表現はこれしかなかったの。

 

 じゃあ、それが正解なんだよ。

 それなのにね、つい「普通」と照らし合わせて、「それじゃいけない」って思い込んでいた。

 わたしは何もわかっていなかった、
「自分が社会になる」とか、自分中心とか、自分自神とか、自分ビジネスとか、「自分は完璧」とか、全然何にも、それらの内側の部分を。

 音楽について、
 作品について、
 表現について、
 芸術について、
 敷衍して学問についても、
 わたしには、「こうしなければならない」が、まとわりつきすぎている。

 それは「先生に怒られたくない」「権威者に怒られたくない」という漠然とした、でも強い恐怖からだけど、
 それを打ち破っていけば、自由になれるのだ。

 それなのに、わたしは的を外しまくったことに、
「わたしが見つけてもらえないのは打ち込みだからだ」って思ってたの。
 マジで思ってたの!!!!!!

 ちがう、
 全然違う。
 むしろ逆。

 打ち込みであることを恥じて、自分を隠していたからだ。

 

 わたしはもう隠さないし、
 今は、むしろ「打ち込みですけど何か????」と言わんばかりに、どんどん自分を楽にしていこうと思っている。
 いっそ、どこまで打ち込み感を出したらどうなってしまうのか、実験してみるのも面白いかもしれない。

 今までも、作曲作業の最中に、「打ち込みっぽさが出ないように」と、頑張って隠そうとすることに、無駄に消耗してきたのを確かに覚えているから。
 あのエネルギーの浪費がなければ、もっと別の、楽しいことにこだわれたはずなのだ。それにスピードアップもできたはずだ、本当は抜きたくないところで手を抜かずして。

 

 打ち込みの音楽は、偽物じゃない。

 わたしが奏でる打ち込みの音楽は、むしろそれこそが、全てをわたしが手作業で作っていることの証。

 わたしの手垢そのもの。

 わたしの存在感そのもの。

 それは、自分で自分の曲を聴いているときだって、感じていたことなのに。

 つまり、わたしの魅力であり、わたしの世界観であり、その居心地の良さであり、
 わたしの声と同じぐらい、わたしの歌に必要なものだった。

 わたしの身体が楽な状態で、
 けれどわたしが奏でて欲しい音を正確に奏でてくれて、
 つまりわたしのこだわりが細部まで表現されて、
 聴いてくれる人の耳をくすぐり、世界を包む。

 それって、とてもとても素晴らしくて尊いことなのに。

 

 声を「打ち込む」ことすらも、表現の一つとして尊重されるべきだと--つまりボーカロイドなどの音声合成ソフトは、決して「歌手の偽物」「偽物の歌声」ではないと--わたしは信じていたはずなのに。

 わたしが打ち込む楽器たちも、それと何が違ったと言うのだろう。

 

 わたしはずっと、宵部憂を音楽の世界の一員にするには、一員と認めてもらうにはどうしたらいいのだろうと考え続けてきてしまった。
 でも、違う。

 

 わたしの音楽を作るんだ。

 まるでこの世界には、わたしが歌わなければ、もともと音楽はなかったみたいに。

 わたしの歌は、わたしの音楽は、わたしにしか作れない。

 誰かに合わせる必要も、誰かの真似をする必要も、誰かに従う必要もない。

 水準や鋳型に合わせる必要もない。

 わたしが歌わなければ、わたしが奏でなければ、わたしの音楽はどこにもない。

 ゼロベースで考えるんだ。

 わたしが何かを書き込まなければ、
 この世界は白紙のページでしかないということ。

 

 ちょっとしばらく、迷走してしまったかもしれないけれど。

 今度こそ身軽になって、

 また新しく、でもいつも通りに、またはじめよう。