大学院行きたいかもしれないって思った。
それも、芸術系の。
お世話になった先生がいるところで、なんか良さそうだから、秋田公立美術大学の大学院。めっちゃ興味あるなって。
なんて言ったらいいのかな、
ずっとね、「大学」って、アカデミアだから、つまり学校だから、どうせやっぱり思ったこと言ったりやったりするのにも制限があるんでしょー、って、また勝手に拗ねてたかもしんないなって。
大学は、研究機関は、アカデミアは、専門機関は、「ちゃんとした」ところは、理性の世界だから、直感が許されないんだって、勝手に思い込んでへそを曲げて自己規制して自分を隠して、背を向けようとしていたのかもしれない。
でも別に、直感=直観の内容を、論理立てて、理論や他の人の言説を支えにして論じる=伝えることができれば、直感で大学や研究機関を生きていくこともできるのでは???? っていう閃きが、今日降ってきたんだよね。
っていうか、先に直感があって、後から論理立てる、なんて、追い詰められた時にわたしはいつもやってたし。レポート書くときとか、作品作って後から論じなさいってときとかに。
それで、割と手応えも得てきたしね。
直感や、柔らかさや、弱さが許されない場所なんじゃないかって勝手に思ってたの。
でも、それってちょっと、それはそれで専門家を舐めすぎかもしれないよね。
それこそ芸術や文化に関わる専門家たちは、そうやって直感や柔らかさや弱さを軽視してきた文化や風潮に、飽きていたり、手詰まりに思っていたり、居心地の悪さや窮屈やしんどさを感じていたりするかもしれないじゃん。
そういう感度を持っている人たちだってたくさんいるかもしれないと、どうして信じられなかったんだろう。
生意気なこと言うけど、頭の固い大人も、そりゃきっといるだろう。頭の固い専門家も。
っていうか、そういう大人を見てきたことが、「大学も所詮は……」って心をひらけなくなった原因なのかもしれない。
でも、そんな人たちだけじゃないってことも、見てきたはずだ。
色んな人がいる。
それぞれ、大事にしていることも、考え方も、物を見る角度も、注目する箇所も、その表現の仕方も、何もかもが違う。そのことも学んできた。
色んな人がいるから、どんな表現もある程度、受け入れてくれる人はいるわけだし、
わたしのしたいことだって、何にもその例外じゃない。
自分のことはなかなか客観視できないから、「自分だけは受け入れてもらえないんじゃないか」って、冷静に考えたら馬鹿みたいだけどそう思ってしまいがちなんだけど。
(そうそう、「自分を客観視」に関しては、書きたいことがあるので別の記事に書きます)
まあ、快く受け入れてもらえないことがあるとしたら、それは相手と相性が悪いか、自分が勝手に拗ねて心を閉じてヘンな表現の仕方をしてるかだと思うから、これも覚書として書いとこっと。
「学校は、自由が許されない場所」って、思いすぎたかもしれない。
いや、自由が許されるのにも程度があるかもしれないけど、そうだとしても、やってみてから考えればいい話であって、自己規制でどんどん幅を狭めていくのはもったいないよね。
「間違いたくない」って思うのもまた、もったいない。
恥晒す覚悟をしないとな。
格好悪い自分も、許す覚悟。
一旦は、何か肩書きの外に出てみたいけど、
いつか大学院行って、
博士もとれたら、
「元不登校だけど博士なりました!!!!」って言えたら面白いかも。って、想像してむふってなりました。
不登校、つまり学校や学問や教育機関や仲間ってところでつまづいてしまったなら、いっそ極めてしまったらどうだろう?って。
今までのことを分析するのも含めて、
これからも、学校を通して自分が感じたことを自分でどんどん研究していくの。
それをブログに書くの。
赤裸々に、ときに感情的に、ときにものすごく理論的に。
それってめっちゃ面白そうじゃない?
研究としても意義深そうじゃない?(これは専門研究じゃなくて、当事者研究とか自己研究とか経験による研究っていうのかな。何にしても面白そう!)
わたし、勉強すんの、結局好きだもん。
競争とか、スポ根な努力とか、頑張ってる自分が好きな文化とか、そういう暑苦しさが嫌いなだけで。
新しいことを知るたびに、頭の中に火花が散るんだ。「面白い!」「楽しい!」「気持ちいい!」って。
本に線を引きながら(後で見返した時に、「その言葉さえ見れば何書いてあったか思い出せる」って状態を作るため)読み進めていくあの快感と言ったらよだれが出るのよ。
そして「ここからこんなもの作ったら面白くない?」って思えたらしめたもの。それも最高の瞬間。
しかも火花が散るたびに、語れることが増えていく。伝えられることが増えていく。
最高じゃん。
ビバ学び。
でも、学校という機関にいると、どうしてだろうね、その快感で十分なのに(もやもや悩むことだって快感だし)、
「認められたい」とか「怒られたくない」とか「舐められるのが怖い」とか、雑念が湧くわ湧くわ。
たぶん、先生(指導教官)との関係の中で、知らないうちに親子関係の焼き直しをしてしまっていることも大きそうだし、
クラスメイトや同期といった「横」の概念がある中で、どうやったら比較のしすぎで自分の足場を見失わず、自分でい続けられるかってところとか、
学校という場所はどういうところだって自分は思い込んでしまっているのかとか、
どうしてそんなことで舐められると思っているのかとか、どうしてそんなに舐められるのが怖いのかとか、
それらは自分の個人的な魂の課題の部分もあるし、社会学とかで分析できそうだしすると面白そうだし語れることも増えそうな部分もあるだろうけど、
なんだ、研究材料に尽きなさすぎるな????
今までは、「自分のこと」と「学校のこと」、「宵部憂の活動」と「学校のこと」、「魂のワーク(自己治癒、子宮メソッド、自分ビジネス、自分の人生、食い扶持……)」と「学校のこと」、全部分けちゃってたけど、
学校という場所についてを観察することだって、自分のことでしかなかったじゃん。今更気づいちゃった。
そして今までは、「これを研究したい!」って決めたらそれをずーっと、がーっとやらなきゃいけないって思ってたけど、別にそれもわたしルールで採用しなきゃいいんだよね。
誰だって、程度の大小はあっても、ハマるもののサイクルがあったり、今すごく興味のあることが移り変わったりするのは当然のことだし、宵部憂の活動の中に「『学校』というものの研究 〜学校に通うことを通して自分が感じたことから出発して〜」を含めちゃえばいいんだ。
かーんたん!
わたしの持論では、「自分の一貫性なんてあとから『発見』して語ってしまえばいい」ので。
実はね、アートスクールというものに通ってみたかったんだ。
すごく刺激的で、柔軟で、色んな世界の見え方を教えてくれそうな場所だから。
すごく憧れがあったの。
だから、めちゃくちゃアートスクールっぽい授業をしてくださった先生が教えてらっしゃる大学ということで、とても惹かれています。設備も周辺環境も素敵そうだったしね。
いつになるかわかんないけど、行きたい!
「誰にも指図されず、好き勝手やりたい」「だから学校なんてもうやだ」って思っていたけど、
同時に勉強するのが好きな自分もいて、もっと新しいことを知れる場所=大学という場所に惹かれる自分もいて、
今まで学校と名のつく場所がトラウマティックなほど辛かったせいで、勝手に専門家になることを諦めていたかもしれない。
でも、じゃあ、どうしたら学校がトラウマティックじゃなくなるのかな。
そんな過ごし方を、もしかしたら見つけられるのかもしれない。
わたしのような、極めて過敏な感性を持った人(って自称すんの恥ずかしいけど)は学校には合わないので、別のところで何でもやればいい、って思ってたけど、
別にその限りじゃなくて、二者択一じゃなくて、
わたしのような感性を持った人でも、学校という場所でやっていける方法があるかもしれない。
何もかも、諦める必要なんてないのかもしれない。
よく感じて、よく考えて、よく工夫して、よくやってみて、それを繰り返せば、できないことなんてないのかもしれない。
「できない」を「できる」に変えられるのかもしれない。
がむしゃらにがんばらなくても。
学校を、学校を通した自分の感情を、ちゃんと見つめてみようと思う。
学校という場所に関わる時、自然に出てきてしまう自己規制とはどんなものか?
学校でも本音をもっと出してみたらどうなるのか? もっと当たって砕けろ精神でやってみたらどうなるのか?
もっと身体を楽にしてみたらどうなるのか?(これについてはオンライン化で限りなく簡単になった)
もっと普通じゃなくてもやってみたらどうなるのか?
まずはこの後期から。あとちょっとしかないけど、大学生活の研究を楽しんでみる!