この記事↓で、「『自分のこと(自分から出るもの、自分の持っているもの、自分の表現、etc.)を好きになれない』っていうのは未熟」って言ったけど、もう一つ気づいたことがあるので書きます。
未熟もそうだけど、あのね、「自分のこと好きになれない」って言ってるうちは余裕があるんだなと。
「自分の作ったものを自分で愛せない」とか言ってるうちは余裕があるんだなって、自分への言い聞かせも込めて書いておかなきゃいけないなと思いました。
だって、お尻に火がついて、「どうなるかわからないけど……もう時間ないしこれで行かないと! わたしだし行けるだろ! えいっ!」ってなってる時、愛するとか愛さないとかそういうレベルの状況じゃないじゃないですか。
自分を押し殺すのか、自分を貫くのかの瀬戸際だって、自分を愛してるから自分を貫く方を選ぶっていうよりは、自分を押し殺すっていう選択肢をここで選ぶと絶対やばい! 絶対精神的に死ぬやつ! 生きてても死んでても別に同じじゃん……みたいな方向に落ちてっちゃうやつ! ……っていう危機感に従ってるだけじゃないですか。
わたしは経験したことないけど、実際に生きるか死ぬかの瀬戸際だって、自分を愛してるとかそうじゃないとか関係なく、まずは生きることが最優先じゃないですか。
そんな風に、後が無くなったら、愛せるか愛せないとか関係なく出してくしかないじゃないですか、作品も表現も自分も。
だから、「こうあるべきだ」「こうじゃないと」っていうプロ意識もどきを握りしめて、自分を出してないうちは、そうできる余裕があるってことだし、結局自分を出したくないってことなんじゃないかなって思って。
あるいは、表現するならそうしなきゃいけないって思い込んでるとか。
少なくとも確かなのは、これからの時代、いやもうすでに今もか、
「なんかよくわからないけど自分はこれがやりたい、うまくできてるかとかもよくわかんないけど何でもいいからとにかく出しちゃえっ!!!」ってできる人の方が、その純粋さや思い切りのよさや手数の多さという点で、昔気質の職人気質を極めた人より結果が出ちゃうようになってんじゃないかな、ってことです。
これからの時代、いや今もか、無邪気さや素直さが超大事なんだろうなって。
そう考えると、「昔気質の職人や、厳格なプロによる、こだわり抜かれた至高の作品」という考え方自体が、すごく近代的な(モダニズム的な)考え方で、
「ポストモダン」という言葉すら現れて久しい今日には、もはやそんなに似つかわしくないと言ってしまってもいいのでは?という気もするのです。
まあここまで言えちゃうのも、そもそもわたし自身が職人気質極めちゃってる人間だ(った)からなんですけどね……
そろそろ、もっと軽くなったっていいじゃない!って、拗ねるのを辞め始めています。
そう、もっと軽い気持ちでもいいよねって。
重いのが悪いわけじゃなくてね。
重いものすら軽くてもいいとか、そんな感じ。
こだわりって、自分の中の「こうあるべきだ」を突き詰めていくことじゃなくて、
自分の霊感を出来る限り精緻に感じ取って、言葉やイメージや何か伝えられるものに変換して、現実に顕現させてあげることだし、その方法はなんでもいい、みたいなものなんじゃないかなと思いました。
とにかく、わたしはこの「こだわり」の部分でエネルギーを消耗しすぎている気がするんです。
自分の作るものにこだわることって楽しいことのはずなのに、今は「割りに合わないもの」「でもやらなきゃいけないもの」として苦痛になってしまっていて。
そこからは脱却したい。
「こだわり」だって軽くていいはずなんです。
そもそも何かを作る以上、こだわってないはずないんですから。
こだわりが、つまりものづくりの真髄が楽しいのは、自分の頭の中にあるものを現実に作り出すことができるところですから、
楽しめるこだわりっていうのは、いかに霊感を形にするかっていう部分ですよね。
そこで悩んだとしても、仕様を考えるのが楽しい。
あとは「こうでなきゃいけない」をできる限り捨てて、やれるようにやってみればいいんじゃないかって思っています。
あと、手癖には降伏すべきだとも思うしね。
それが自分色。自分の顔立ちや体格や声質や……みたいな、変えられないし変えようとするのも大変なものだし、でも絶対に人とかぶらない部分なんだから、
降伏して堂々と受け入れて、それを恥ずかしいって思う気持ちすらブログに書いちゃったりして、強みや持ち味や財産にしていけばいいのかなって。
変に手癖を避けようとしても、余計なエネルギー使うし、不自然になっちゃったりするもんだし。
(自分の作風の野暮ったさには、この記事でちょっと降伏しました笑↓)
あと、ここからもまた特に言いたいことなんですが、
昨日アメブロの方でこんな記事を書きました。↓
わたしはプロ意識とか職人気質とかこだわりっていうものを、どんなものであっても自分の内側から出てきたものを絶対輝かせてやるぞ!っていう気持ちで(つまりプロデューサー的方向に?)使いたいなって思って。
わたしもね、物作りとともに生きてきた人間だし、本格的に作ることを始めてからもそこそこ長いですから、プロ意識とかって、「自分の納得できないものを世に出さない」ことだと思っていたんですけど、
それって古い考え方だったなって思って。
特にわたしが注目している「自分ビジネス」という新しい生き方は、自分の細胞全部をお金にすると言っているわけですから、自分から出てくるものって全てが自己表現だし、作品なわけです。
自分の身体のリズムで仕事をする、自分の生活の営みをビジネス化する、と言っているから、わたしから出てくるものって全部正解なわけです。
だから、ノー没宣言。
「自分で作ったものを自分で愛せない」って、それは間違いなく、勝手な「こうあるべき」に囚われて、自分の内側から出てきたものの本当の意味に気づけてないだけなんだって。
わたしはこっち側の意識で、プロ意識を使っていかなきゃダメだなって気が付きました。
自分の作ったものを自分でジャッジして、「ちがーう!」って叩き壊すやり方が、……まあ間違ってるとは言いませんが、メンタルに負荷がかかるのは当たり前なので、自らいばら道に行ってる気もします。
もっと楽に楽しくやる方法を選んだ方が賢いとわたしは思いました。
それに思ったんですが、人間は生きてれば日々変化していく生き物で、その上わたしは色んなものを吸収しやすいし、波のある女性の身体も持っています。
そしてそんな身体や無意識(刻一刻と変化しているけど、頭でその変化に気付くのにはちょっと時間がかかる)こそが、作品を作るための霊感を得て、最初の一歩を作り始めます。
なのに、それを作り込むための「こだわり」の部分は、少なからず理性が握っているので、わたしの変化についていけず、勝手なジャッジをしてしまう可能性があるなって。
だから自分の内側から出てきたものを自分で愛せない現象が起きるんじゃないかって。
だから「こだわり」とか理性の方を、自分の刻一刻と変化している無意識や身体に合わせていかないといけないんです。
自分の無意識は何を言いたかったのか、
自分の無意識が掴んだ霊感とはなにものだったのか、
それを細部まで見つめて掴むのが、ほんとうのこだわり。
だから、プロ意識や職人気質やこだわりは、納得できないものを間引くためではなく、
「絶対に全てをモノにする」ために使うのが正解かなって思いました。
何がなんでも輝かせてやる!っていう、飽くなき自分への信頼と執念。そっちだなって。
自分を見つめるために使うんです。
これからのやり方において、プロ意識とは、どんな時でも自分を見つめる力であり、どんな時でも自分を愛する力だなって思いました。
そして、どんな時でも自分を信じる力。
自分の内側から湧いてくる全てを信頼し(愛する)、そこに真実があるって信頼し(信じる)、それを探求する(見つめる)力だって。
揺らぐ時もあるけど……忘れないでいたいな。
今回の記事はここまで!
あとは実践あるのみだわ。