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 有名人の「ぶっちゃけすぎた」(と言われるような)問題発言が燃えまくる昨今ですが、皆様いかがお過ごしですか。

 わたしは「言いたいことは言えばいいよ」っていうスタンスなんですが、そもそも「言いたいことは言えばいいよ」とは別の軸で、倫理的にアウトな発言はあると思っています。今回はその基準について書いていきます。

 一言で言うと、「無知」なんですよね。
 思考停止とか、想像力の欠如とも言うんですけど。

 ちゃんと考えて、ちゃんと調べて、それでもそう思うんなら、言えばいい。ってわたしは思うんです。
 でも、それにはやっぱり批判も起こるかもしれない。問題点の指摘も。
 で、その批判も聞いて、「あ、やっぱり自分は間違っていたな」と思ったら、心から反省すればいいし、
 そこでまた考えて、「……でも……やっぱり……」って思ったら、やっぱり口に出せばいい。
 って思うんです。

 そこで意固地になるのは違いますよ。
 素直に反省できる人がカッコいいし、カッコいいけど、人としてあるべき姿だとも思います。最低限の身嗜みっていうか。

 かといって、「批判されないように」って考えるのも違います。
 それって自分の軸がないから。
 自分の考えじゃなくて、「人に批判されないように」で考えていたら、風見鶏だもん。
 てか、「批判されないように」正しいっぽいこと言ってても、それ、心から言ってるわけじゃないなら、別に正しくないし。

「自分の考え」って、みんなが言っていることの逆を何でもかんでも言うことでもないですし。

 ……でも、無知や思考停止や想像力の欠如で、何かを言ってしまうことって、人間は不完全なのでまああることだとも思うんですよ。
 そこでまた気になるのが、キャンセルカルチャーの暴走です。

「キャンセルカルチャー」という言葉の定義も、まだはっきりと「これ」と言える状況ではないと思うのですが……(適当にこの言葉を使うと、差別撤廃を叫ぶ声を黙らせようとする動きに加勢してしまう危険もあります)
 自分なりに「わたしはこれがよくないと思っていて、それを形容するなら ” キャンセルカルチャーの暴走 ” と言えるのではないかと思っている」という定義を考えてみると、
「ある人物や集団の現在や未来を、過去の過失や失言を理由に、全て否定する」ことです。
 かなりひどいし、行きすぎていると思うのですが、実際SNSによってこの動きはどんどん加速していっています。

 でも、過ちを犯した人を表舞台から追放して、「やらかした」企業の製品の不買運動をして、それだけで、何かが変わるのでしょうか。
 大事なのは、一度「やらかした」人の変化でもあるんじゃないかって思うんです。

 そりゃ、残念ながら、全ての人間が、自分の行動や発言への批判を真摯に受け止め、反省できるわけではないかもしれません。
 でも、全ての人間が反省できないわけでもありません。
 だのに、全てをキャンセルするというのは、その人の現在や未来を信じないと決めてしまうということなので、貴重な変化のチャンスを奪ってしまうことにもなると思います。

 それに、当たり前ですが、人間は「善・悪」に分けられるわけでもないので、
「確かにこの人はこういう悪いことをしたかもしれないけど、一方でこんな素敵な仕事もしたわけで……それとこれとってそんなに関係があるのか……? どうしても繋げないといけないのか……?」という問題もあります。
 ……ここに関しては、わたしもまだ考えをまとめられていません。

 特に、差別や性被害など、トラウマティックな経験が被害者に残ることに関しては、加害行為を行なった人の存在を感じるだけで恐ろしい、とても悲惨な記憶を呼び起こされる、ってこともあるわけで、……でも、だからって「今後一切出てくんな、活動もすんな、何もすんな」でいいのかな……って。
 だからってもちろん、そのトラウマティックな経験・心理状態・記憶(個人的及び集団的な)は、被害者の「個人的事情」と矮小化していいのかって言ったら、そんなわけないし。

「 ” 表舞台 ” には出られません」とか、「 ” 公の場 ” には出られません」とかがいいのかな……って思うと、じゃあどこが表舞台なのか、どこが公の場なのか、っていう定義を、色んな背景を持った人たちで協議して決めていかないといけないのかな。
 ……と、わたしが今考えられてるところまでを語ってみました。

 こういう、「一回やらかすと全部終わり」みたいなことが普通になってしまうと、みんな何か言われるのが怖くて何も言えなくなってしまうじゃないですか。

 そうやってみんなが萎縮するからこそ、「逆張り」みたいな過激なことを言う人に支持が集まってしまう、っていう現象もある気がするんです。
 みんな何も言えなくてフラストレーションが溜まっているから、「よく言ってくれた!」ってなってしまう。

 でも、社会的正義を追求するには、もっと萎縮を呼ばない方法もあると思う。
 これからは、それを追求していく時代なんだろうなって。

 わたしが、社会がこうなって欲しいなって思う姿は、
・不正義に怒ること・人々を否定しない、黙らせない。
・でもやらかした人の全てを否定することもしない。裁くべき場所を定め、声明としてちゃんとはっきりさせる。
・その上で処遇を考える。「公の場」からは退場してもらうなど。
・反省したり学んだりしてもらう。(ただ、ここ、無理強いしたって意味ないんだよね……また難しいポイント。人の考え方はなかなか変わらないし、そもそも変えることは正義なのか、っていう問題もある。「考え方が違う同士で交わらず、別の世界で生きて行ったほうがいい。そっちの方が平和」というパターンもあるから)
・「裁くべき場所」以外のところに批判が飛び火しないよう、声明でフォローもする。

 だから、何が言いたかったかっていうと、
・言いたいことは言えばいいけど、ちゃんと考えろ。よく知らないまま口に出すな。
・↑で、自分が無知なんじゃないかと不安になったら、勉強したり、近しい人に監修してもらったりしよう。
(昔は出版社や編集者や放送局……「メディア」と呼ばれるところがこの立場だったのですが、今はみんなが発言できる時代だから監修をつけるって簡単じゃないんですよね……なので、友達同士で相談しあったり、信頼できそうな資料を読んで勉強したりしてみよう)
・あ、やっちまったな、と思ったら、反省して学べばいい。
・かといって人に批判されないように気をつけすぎて自分の軸が無くなっちゃうのも違う。
・やらかしちまった人の全てを否定すんのもやりすぎだと思う。
・その全否定が普通になっちゃうと、みんな何も言えなくなっちゃうし、何もできなくなっちゃうし、そしたら過激なこと言う人を支持する動きも強くなってしまう。
・あと、自分も、他の人のやらかしとかに関しても、あんまり周りに左右されすぎず、「自分はどう思うのか」を考えようね。
・友達と考えが違うことを恐れなくてもいい。考えが違っても仲良くはできる。ぶつかることもあってもいい。どっちでもよい。

 ということでした。

 ありがとうございました!